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ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

はじめに

このダイアリーはブッダの教え、ダンマに関する各論です。生きることの苦を減らすためにブッダが発見した、生きている人のための様々な教えについての議論、エッセイを書いて行きます。最初から学びたい方は一から学ぶブッダの教えをご覧になってみてください。
ツイッターid:@mucunrenメールはこちら。

四聖諦を学ぶ

四聖諦はブッダの発見した最高の真実です。どういう形であれ四聖諦を知らない人は、無明が原因で生じる苦から逃れる事は出来ません。四聖諦は苦に関する自然法則なので、数学や物理学の様に独力で発見する事も理屈の上では不可能ではありませんが、普通はとても困難な上に既にゴータマブッダが教えを示していますから、難易度を下げるのと時間の節約のためにブッダの教えを教科書として学ぶ方が良いです。これは学校でものを学ぶ方法と同じです。

 

四聖諦とはどういうものでしょうか。それは、苦と、苦の発生原因と、苦の消滅(苦が発生しない状態)と、苦の消滅に到る方法の四つからなります。

 

苦諦

最初に苦とは何かと言うことから見ていきます。苦とは何でしょうか。それは老い、死ぬこと、嘆き、悲しみ、全ての悩み、苦しみ、不満足、虚しさなどの全ての良くないもののことです。何であれ変化することは、必ず喪失、落ち着きのなさ、浮き沈みをもたらします。そう言う変化する全て、つまり無常の全ては、もし「自分のもの」と思い込んで掌握していれば、必ず失われるので苦と言えます。

良いものとは何でしょうか。それは、失われないもの、嘆き悲しみをもたらさないもの、つらいと感じないことです。それは変化しないことによって維持できます。

しかし無常の全ては変化し、これを止める事は出来ません。

 

集諦

苦の原因とは何でしょうか。それは、苦とは何かが見えた今実は既に明らかです。苦の原因は、変化すること、つまり無常が苦の原因のひとつです。そしてもうひとつの原因は、無常に限らず全てに関して「自分のもの」とみなすこと、思い込んで掌握することです。

 

目で見えるもの(光、色)、耳で聞こえるもの(音)、鼻で嗅げるもの(臭)、舌で味わえるもの(味)、身体で触れるもの(接触)、心で考えられるもの(想い、念)、これら六つの全て、つまり六処入、あるいは六根を「自分」と言う錯覚から生じる主観(六識:眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)で「(自分にとって)好き、嫌い、好きでも嫌いでもない」と判断し、色音臭味接考と、眼耳鼻舌体心と六識によって六処入による受が生じます。

 

受(六処入から生じる五感と心の感覚、感受)をやはり主観で「自分のもの」と思えば、受は無常で維持できず、必ず失われることにより苦となる仕組みです。しかし、普通の人は無知なのでこれらの苦に関する真実を知らず、六処入(六根)から生じる感覚、つまり受を「自分のもの」と思います。自分のものと思っているので良いと思える状態、つまり喜びの感覚(幸受)に執着します。しかし喜びは無常の変化で失われるので実は苦です*1。良くないと思える状態、つまり痛みや苦しみの感覚(苦受)も、例えば「私が痛みを感じている」と掌握するので当然苦です。良いとも良くないとも言えない状態、良いとも悪いとも感じない感覚(不幸不苦受)も、やはり自分のものと掌握していれば失われて苦になります。

 

まとめると、苦は無常のもの(外側の原因)を「自分のもの」と思い込むこと(内側の原因)、が揃って生じます。しかし苦に関する真実に対する無知、つまり無明が原因で人は六処入(六根)から生じる受、つまり無常のものを「自分のもの」と思い込むことから離れられないので内側の原因があり、外側の原因つまりあらゆる受が生じた時に、「全ての原因が揃うので」必ず苦になります。この仕組みは、苦の発生の原因を示しています。

 

滅諦

苦の消滅とは何でしょうか。内側の原因と外側の原因が揃わないとき、苦の発生のための全ての原因が揃っていないので、苦は生じません。外側の原因は、無常による変化で発生したり発生しなかったりするので、苦の消滅のための拠り所、当てにはなりません。

 

安定した苦の消滅、つまり涅槃への到達のためには内側の原因を見る必要があります。すなわち、何であれ「自分のもの」と掌握しないことです。苦に関する客観的事実が見えて、つまり無明が晴れれば、「自分」と言う概念が錯覚であり、錯覚に依存して何であれ「自分のもの」と掌握しないので、苦の原因、つまり縁起が消滅するので内側の原因が揃わず、外側の原因に関係なく苦は発生しなくなります。これを苦の消滅と言います。

 

道諦

上記の苦の消滅のための方法とは何でしょうか。これはつまり内側の原因を消滅させる方法です。すなわち、「自分」と言う錯覚、執着である我語取を捨てる事です。

我語取を捨てるにはどうすれば良いでしょうか。それは「自分」と言う間違った見解を正して、苦に関する客観的事実を知ること、すなわち正しい見解である正見を身に付けることです。

 

正見があるとき、苦を消滅させようと言う正しい意思、希望である正志があります。正志がある人の言葉は苦滅のための正しい言葉となり、正語があります。正志があれば、正語と共に苦滅のための正しい行動である正業があります。言動が正語と正業であれば、自然と生活も正しくなり、正命となります。また、これらの正しさを維持しようと言う正しい努力である正精進があります。これらの全ての正しさがある時、油断がなく、常に心に正しく気を付けられるので、正しい注意である正念(サンマーサティ)があります。正念が保たれているとき、心は安定した禅定が保たれて正定(サンマーサマーディ)があります。

 

これらの八つは全て連動しているので、どれかが出来ていてどれかが出来ないと言う事はありえません。例えば正語がないのに正見があると言う様な事はないのです。

 

これら八つの項目からなる正しさを八正道と言い、八つ全てが揃っている時、内側の原因である「自分」「自分のもの」と言う掌握がないので、これらの八つの正しさを保つ方法によって苦が消滅します。

この八正道の水準が完璧になったとき、苦に関する無知、無明が晴れて消滅し、正しい智慧が生じます。この正しい智慧によって、正しい解脱に到達し、全ての掌握と苦から離れた涅槃の境地に到達します。

 

以上の四つの苦に関する客観的事実を四聖諦と言い、苦を消滅させるための方向を示す唯一のダンマ(法)なので、これを最高の真実と言います。

 

*1:普通の人は苦である喜びの受(幸受)を「幸福」だと間違って認識しているので、積極的に苦を求めます。すなわち、好ましい家族、恋人、財産や地位と言った無常のものを求め、喜びの受を自分だけ沢山得ようと思います。この間違った認識が改まらない限り、決して苦の消滅に到ることはありません。滑車の中で餌に向かって走り続けるネズミの様に、無限とも言えるほど何度も苦を掌握し続けます。これを輪廻と言います。

「私」を捨てて二の矢を避ける

前回の記事では「私は正しい」が怒りの燃料だ、怒りで「二の矢」を受けていると言う事を見ていきました。

実は深く事実を観察すると、人は怒りに限らず、ほとんど常に「私は正しい」を燃料にして行動しています。ぼんやり散歩に行くときなどですら、まず「これは間違っている」などと思ってはいません。

逆に「私は正しい」と思えない事は、びくびくしながら、あるいは本当に嫌々ながらするか、あるいはその行動自体を止めてしまいます。

人の心を良く観察してみると、ほとんどの人は全て「私は正しい」、あるいは「私はこう思う」と言う主観に支配されています。

以前の記事にも書きましたが、例えば同じ犬を見たとしても、犬好きの人は喜び、犬嫌いの人は毛嫌いし、関心のない人は何も感じません。同じ現象でも人によって反応はそれぞれで、つまり人の反応はその人に依存して違います。

皆客観的事実を見ずに、それぞれ主観で「私はこう思う」に支配されていますから、意見が合う人同士では意気投合し、合わない人同士ではいがみ合います。

ここで問題なのは、大抵の人は「私はこう思う」と言う主観を、普遍的真実だと思い込んでしまう、つまり錯覚に陥る事です。この錯覚があらゆる苦であること、望ましくないことを招いてしまいます。

例えば「私は大変魅力的な人で、しかも外見だけでなく中身も素晴らしい」などと思い込んでいる人がいて、しかし他の人からは単に勘違いした疎ましい人だと思われていれば、勘違いした人は望む通りにはチヤホヤされないので大層苦しむ事になります。そして心を守るために「皆が愚かで見る目がないから、私の魅力が解らないのだ」などと主観、つまり妄想を酷くしていきます。

実際にはあらゆる主観は妄想であり、事実ではありません。事実とは、「これはこうである」と言う普遍的なもので、智慧のある人なら全てが同じ見解を示す事です。例えば「水を温めればお湯になる」とか「地面は一見平らに見えるが、規模の大きな視点から見れば惑星の表面であり、丸い」と言う様な話は、誰も否定できない、その通りの事なので、これを事実と言います。こう言う話には、「私はこう思う」と言う妄想が一切混ざっていません。

さて、いよいよ二の矢の話を見てみます。前回、怒りは「(状況が)私の都合に悪い」と「私は正しい」の二つが揃ったとき発生して、後者の強さに応じて燃え上がる仕組みを見ました。前者は環境に依存する原因なので、仏教では「外側の原因」と言い、後者は心の原因なので「内側の原因」と言います。

見聞きできるもの、触れるもの、五感と心で感じることのできるものは全て無常で変化しますから、どんな人にも当然望ましくない状況、都合の悪いことは降りかかります。生きている限りこれを避ける事は出来ません。つまり外側の原因を完全に排除する様なことは不可能なので、怒りも含めた全ての静かでない心の状態、つまり「二の矢」を外側の原因からアプローチする、解決するのは無理です。世俗の人はこれが見えないので、一生懸命外側の原因をいじろうとします。例えばお金を沢山手に入れて望みを叶えようとしますが、こう言う方向はまるで頭を隠せば尻が見える話の様に無理なので、この方向はいくら努力しても無駄で、効果がありません。

仏教ではこの様な不可能な方向のアプローチ*1は捨てて、現実的に制御可能な内側の原因に着目することを示しています。つまり、「私はこう思う」と言う妄想を捨てて、事実のみを見る方向です。

無常の現象にいちいち主観と言うフィルターを通すと、必ず思い通りにならない状況が生じて、それを苦しむ羽目になります。客観的事実は、「私はこう思う」と言うフィルターがかかれば見えなくなります。この主観と言うフィルターは、つまり事実を見えなくする目隠しなので、フィルターがかかっていること、主観から離れられない状態を仏教では暗闇で物が見えない事になぞらえて「無明に覆われている」と言います。

前回の記事でも述べた様に、怒りは典型的な苦しみ*2ですが、「私はこう思う」とか「私は正しい」と言う妄想から離れた時、怒りや、あらゆる静かでない心の状態が生じる原因は揃わないので、苦しむ事がなくなるのです。

この話はちょっと聞いただけでは「いや待って、誰でも「私」はあるよ。「私はこう思う」から離れるなんて無理だよ。」と思うかも知れません。実はその反応自体が既に客観的でなく、「私はこう思う」に陥っているのです。

例えば前回の煩いヘッドフォンの人の話でも、たまたま映画にそう言うシーンが出てきたとき、あるいは人づてにそう言う話を聞いたとき、その場の被害者の様に本気で怒る人がいるでしょうか?多少は不快に感じたとしても、大抵は「これは伝聞だ、気分の問題はあるが、私の都合に切迫する訳ではない」と思うので、一々心の底から怒る事はない筈です。

この例の様に当事者にならなければ、「私の都合」は介在しにくいので、比較的「私」から離れる事は易しくなります。これを常に行えれば、客観的になれるので、その分だけ苦が減るのです。

他の例で見れば、良く知らない人が傷害事件の被害にあったと言う話を聞いたとします。毎回その被害者に心の底から同情して、加害者に対して怒り狂うでしょうか。大抵は自分の都合に関係ないので「そうなんだ」程度の感想しか抱かないでしょう。こう言う場合怒り狂う様な苦からは離れているので、この件に関しては「苦」がない、あるいは少ないです。客観に近いからです。

ところが当事者になった途端に「私が被害を受けた」とか「私は悪くないのに酷い目にあった」などと考える*3ので、物理的身体的な損害だけでなく、何より心で苦を掌握してしまうのです。例えばお金を盗まれた時、金銭を失っただけでなく「私のお金が失われた」と悲しみ*4、心で苦しみます。この心の苦は「現象」と言う「一の矢」に呼応して二発目を受ける事に相当するので、「二の矢」と言う訳です。

何故二の矢を受けてしまうのでしょうか。人だけでなく生き物は全て肉体と遺伝子の保存のために、外部の脅威を排除し、食料を確保し、生殖する様にプログラムされています。

何も知らずにこのプログラムに支配されていると、客観的な視点は持てず常に主観でものを見るため、「内側の原因」である「私」があります。これは苦を掌握する準備、つまり二の矢を受ける準備が整っている事を意味します。したがって無常の変化で「外側の原因」が生じたときに、心は否応なく二の矢である苦を掌握することになります。

怒りに限らず主観で反応した心の状態は全て「苦」です。快楽を感じて喜んでいるときも実は苦なので、普通に自然の状態に流されて生きていれば、苦から逃れる事は絶対に不可能です。

さて、主観は事実を見えなくするフィルターだと見ましたが、これはつまり「私」と言う観点が事実ではないと言う事なのです。「私」と言う錯覚を捨てられれば、全ての苦は消滅します。これは最終解脱の段階で体得できる「無我」ダンマですから、すぐに理解出来ないとしても仕方ありません。しかしよくよく検証して行けば行くほど、「私」、「自分」と呼べるものはこの世にない、と言う結論になります。

二の矢、つまり苦を掌握しない方法とは、「私」、「自分」を捨てること、あるいは「私はこう思う」、「私は正しい」を捨てることです。何かを見聞きしても、「これはこうなっている」「これはこうだ」と言う客観であれば、心で掌握する苦はありません。これは最高の真実の中でも特に最高の真実と言えます。

*1:専門用語で無駄な方法を正しいと信じる事を「戒禁取」と言います

*2:私は今怒っていて最高に幸せ、と言う事はありません。怒りは必ず不快です。

*3:被害者意識の強い人は、つまり「私は悪くない」、「私は正しい」が強いので、いつも二の矢を受ける人で、落ち着きがなく、地獄の住人なのです。

*4:「私のお金」でなければどうと言う事はないのですが。

「正しい」怒り、ニの矢

「正しい」怒りなんてある訳ない、と仰りたい方はいるかもしれません。それはその通りなのですが、その話は一端置いて、ここではまず怒りとはどう生じるかと言う話を見ていきます。

例えば電車に乗っていて、大音量のイヤホンを付けた人が隣に来て、酷く音漏れしてきたとします。こう言う類いの謂れのない迷惑を被った経験のある人は少なくないでしょう。

普通こう言う時は「うるさいなぁ、静かにしてくれないかなぁ」と思うものです。当然、公共の場所で他の人に聞きたくもない音を聞かせるのはマナー違反ですし、正しい行為とは言えません。

ですから、音漏れの人が「悪」なのは間違いないのですが、腹が立っているのは隣の無辜の人の方です。中には酷く頭に来て「うるさいぞ、静かにしろ」などと怒鳴ってしまう事もあるかもしれません。いわゆるトラブルです。

この時客観的には、イヤホンの悪人は好きな音楽に陶酔していて、本人としては悪い気分ではありません*1。そして隣の人はうるさい上に頭に来て最悪の気分です。

どうも悪人の方が良い気分で、悪いことをしていない隣の人の方が頭に来て最悪の気分になっていて、話がおかしいと気付くでしょう。

何故こうなってしまったのでしょうか。それは深く真実を見てみると、その隣の人は、「この音漏れの人が悪い、この音は"私にとって都合が悪い"、"私は正しい"」と言う二つの「私」が怒りの原因として潜んでいたのです。 「私の都合に悪い」は怒りの種火で、「私は正しい」は怒りの燃料、ガソリンの様なものです。例えば悪いことを注意された時など、相手が正しいと思っている場合には、いくら「私の都合に悪い」と思っても「私は正しい」の燃料はあまりありません。こう言う時には「嫌だな」とは思っても、反省しこそすれ怒りが炎上することはあまりありません*2。 しかしこの音漏れの話の場合は「私は正しい」のですから、「私の都合」を侵害する悪人を排除する権利が当然私にはある、と言う様な気持ちが発生します。

この「私は正しい」と言う気持ち、「自らの正当性」と言う考えは実際には全ての怒り、加害行為のための必要不可欠な燃料なのです。「私は正しい」と思っていると、人は間違っている事、利益にならない事でも、あらゆる事をしてしまいます。極端な話、テロリストも「これは正しい」と思ってテロを行います。全ての戦争も同様です。「正しい」と言う後押しさえあれば人は人殺しも含めてどんな悪事でもしてしまいます。

これは非常に大切で、知っていれば利益*3につながりますが、知らなければ必ず不利益を被る、重要な事実です。こう言う事実を「最高の真実」と言います。一方、事実だとしても利益にならないものは「最高の真実」とは言いません。

さて、人は本当に心の底から「これをしてはいけない」と思っている事は、出来ないものなのです。例えば苦痛を終わらせるためとかでなく、元気に生きている最愛の人を今すぐ殺しなさい、と言われて平然と殺せる人はいないでしょう。それを心の底から正しいとは思えないからです。

日本では電車でのトラブルなどは自ら被る被害の可能性も高いので避ける人は多いと思いますが、もし私的判断で悪人*4を制裁できる状況だと見れば、都合の悪い人に加害する人は決して少なくないでしょう。その良い例は、躾と称した虐待や、暴力、嫌がらせなどです*5

何せ心の中で「この怒りは正しいものだ」と思っているのですから。この様な心の有り様になれば、その人は事ある毎に怒り、そのたびに地獄の苦しみを味わっています。この世のどこに「あー私は今怒っていて、最高に幸せ」と感じる人がいるでしょうか。客観的には怒りは「苦」であり、どう贔屓目に見ても幸福とは言えません。

しかし怒りの原因が上の音漏れの例の話の様に本当に悪い人なら、それでは理屈が、収支が合わないと感じるでしょう。何も悪いことをしていない「被害者」が「不快な音」だけでなく、「怒り(とそれに伴う苦)」と言う二次被害を受けているのですから。

察しの良い人は二次被害と聞いて気付かれたかもしれませんが、実はこれが仏教で言う「ニの矢を受ける」と言う事なのです。

怒りが地獄だと知らず、「私の都合」視点で考えていると、悪いことをすればもちろんのこと、世間的に悪いことをしていなくても迷惑を被った上に更に心の地獄に堕ちる羽目になるのです。何とも理不尽な話に感じるかも知れませんが、この世の仕組みはそうなっているのです。これに気付けなければ、事ある毎にその理不尽の下で苦しみ続ける事になってしまいます。

無知であること、無明に覆われている事、真実が見えないことは、つまり大変損な事なのです。

ではどうすれば良いのか、それを次回見ていきます。

*1:真実の観点からは苦の住人ですが

*2:中にはいつも「私は正しい」と言う心の病気が酷い人がいます。そう言う人は客観的には自分が悪くても「私が正しい、相手が悪い」と思い込んで怒り狂います。

*3:利益とは、苦が減る事だけを言います。お金や好ましい異性などは、利益ではありません。

*4:実は悪人とは限らず、単に「私に」都合の悪い人

*5:言葉の暴力も含め、事件として数えられていない暴力、嫌がらせ、あらゆる加害行為は、それこそ数えきれない程あるでしょう。

「自分」と「所有」

どのような人でも、普通に生きていれば「自分」と言う感覚が生じます。人に限らず、すべての生き物は多かれ少なかれ「自分」と言う感覚によって動いています。例えば赤ん坊でもお腹がすいたり眠かったりすれば何とかして欲しいと泣きますし、良い感覚の時には機嫌が良くなります。
想(意識、思考のある状態)がないと思われる菌類などですら、生存に都合の良い栄養や、繁殖場所を求めて胞子を移動させます。

「自分」と感じはじめると、自然と「自分の(何々)」と言う「所有」の概念が生じてきます。これも人に限りません。例えば鳥なら「自分の巣」を作りますし、カビですら「自分の苗床」を持っています。*1

人間の所有になると、上の話よりも更にずっと複雑な様相を呈して来ます。自分の心、自分の身体をはじめとして、自分の家族、自分の恋人、友人、財産、地位、能力、などなどその所有の対象は広範を極めて際限がありません。空に浮かぶ星に自分の名前をつけるという話すらあります。「所有」と言う考えに際限がない好例です。

星とまでは行かなくても、普通に生きていれば誰でも色々な「所有物」を持っています。ここで「自分の」と言うことについてもう少し深く見てみましょう。「自分の」ものは「自分」に関わりのあるものなので、「自分」に関わりのない物事を「所有している」とは考えません。

例えば全く見ず知らずの人が、全く良く知らない何かを欲しいと考えていたとします。これについて貴方は何を感じるでしょうか。おそらく大抵は「そんなの何も情報がないのに判断しようがない。彼だか彼女だかが何を手に入れようが入れまいが知らないし、関係がない。」と感じるはずです。

 

しかしその欲しがっているものが今自分の持っている大切な物、例えば自分の財布だとしたら途端に「とんでもない」あるいは「ふざけるな」と考えます。逆にその欲しがっているものが今すぐ捨てたいもの、例えば手に持っているゴミだとしたら「どうぞどうぞ、処分してくれるんですか」と喜んで差し出す訳です。他人事ならどうでも良いのですが、こと「自分の都合」に関わるとその途端に放って置けない話、関心事、一大事に早変わりです。

「自分」に全く関わりがないと感じる事、知らない物、出来事を人は「自分のもの」とか「自分の興味ある事」と考えないので、そこに何の感想、感情も発生しません。こう言う時は心は平和で、苦がない状態です。普通は身内が死ねば悲しいですが、知らない人が死んでも一々悲しみません。もし誰かが人間が生まれるたびに喜び、死ぬたびに悲しんでいるとすれば、その人の心はほとんど一秒たりとも休まることなく常に喜び悲しんでいなくてはなりません。この様であれば本当に大変です。

全く見ず知らずの人が今生きようが死のうが、それについて普通は何の感想、感情も発生しません。何の感想、感情も発生しないのに、苦しくて仕方がない、という事はありえないので、これを「苦がない」と言います。*2


なぜ苦がないのでしょう。その理由は、「自分」に関わりがないからです。*3
この様に「自分」と思わない、関わりのない事に苦が発生しない、と言うことはとても重要な事実です。

しかし人間に限らず全ての生物に「自分」という感覚は自然に発生しています。これは肉体を生存させ、生殖して遺伝子を保存するためです。
もし「自分」と考えなければ、肉体を維持しようとも考えず、わざわざ食料を探して食べたり栄養を摂ることはせず、呼吸すらどうでも良いのです。そうなれば普通はすぐ死にます。*4
しかし自然界、生物を観察すれば、一々考えるまでもなくそう言う風にはなっていません。全ての生物が発生した瞬間に肉体維持のための活動を始めます。*5これは個体を維持させ、死なせないように活動する方向にプログラムされているからです。全ての生物はこのプログラムによって呼吸し、食事し、外敵から身を守り、睡眠し、生殖する様に行動します。

これは動物の水準の話ですが、人でもこれらの動物的水準の欲求を満たすために行動しているのは同じです。ただ人の場合は個々の力のせめぎ合いの様相が複雑化しているだけで、「心地よい生存」「好ましい感覚」を求めるという意味で客観的に見れば、他の動物と比べても何ら高度な事はしていません。むしろより下劣な場合も少なくありません。
全ての「自分」から生じる欲望の源泉は「労苦なく快適に生存したい」「より多くの快感を得たい」と言う話に収束します。
「所有」と言う考えは、上記の欲求の実現のための方便とも言えます。

ここで「所有」とはどういうことかもう少し深く見てみましょう。「所有」は「自分のもの」として持っている、維持していることです。しかし「自分のもの」の代表格である肉体は、必ず死んで失われます。「自分の心」もころころ変化して維持できません。
昨日の決意は今日どこへやら、ではありませんが、先ほどまで大好きだった恋人が、嫌な振る舞いで一瞬で冷めた、などと言う話もめずらしくありません。
大のお気に入りの洋服も、生地は薄くなり色は褪せるだけでなく、すぐに流行が変わって好きでなくなります。何年もローンを組んだ新車も、10年もすれば古びた中古車で、家なども同様です。

厳密に客観的事実を観察すると、「自分のもの」として維持できるものなどどこにもない事に気が付きます。
全ての物質は片時たりとも止まる事無く変化を続けています。
もっと厳密に言えば、発生したものは片時も維持されずに変化し続け、必ず消滅します。これを「止まっていない」、「常でない」ことから「無常」と言います。
シャボン玉は無常を見るのに良い例です。シャボン玉の表面を良く見ると液体の流れが見え、玉の形も変わり、数秒で破裂します。一瞬たりとも状態は静止していません。
自動車とシャボン玉は寿命が違うだけで、常に変化していて必ず失われる、消滅する事に変わりはありません。
流石にシャボン玉を「自分のもの」として持っていると考える大人はいないでしょうが、
事実を良く知らない子供ならシャボン玉を宝箱に入れてしまっておきたいと考えるかもしれません。しかし好ましい状態は失われ、がっかりします。

ただ、良く見ると大人も家や自動車などを所有しているとか宝だと考えているので、シャボン玉を宝箱にしまおうとする子供と大差ないのです。厳密に見ると、この話では子供も大人も無常が見えていないので、真実が見えない、暗闇の中にいる、と言う点で「無明に覆われている」と言う同じカテゴリーに分類されます。
子供は縁日で風船を買ってもらって大喜びし、家に持って帰って数日もしないうちにしぼんだ風船が地面に落ちていてがっかりするのですが、大人も洋服も宝石も自動車も家族も財産を喜んで所有したと思って失われてがっかりします。無常の全ては必ずしぼむ風船なのです。

例えば俺は大富豪だと浮かれていたら、バブルがはじけて一家離散します。

肉体ですら必ず死んで失われるので、ショックな事かも知れませんが、「持っている、所有している」と思っているものは全てシャボン玉と一緒で維持できず、必ず失われ、持っていられません。
死ぬ瞬間まで「この財産、地位は俺のものだ」と思って死ぬ人もいますが、死ねばもう法的にも所有、維持できません。誰かの手に渡ります。
つまり所有は錯覚だった、というのが事実です。

錯覚を事実だと思えば、必ず思い通りにならない事態になるので苦しみからは逃れられません。
例えば大好きな、愛する家族を失って大層嘆き悲しむ人や、あるいは子供と死別して自殺する親などと言う事も当然あり得ます。
これは「自分の家族」「自分の子供」が死んだからです。どの様な苦しみも「自分の何々」と考えている事が原因です。
仮に他人の子供が死んでも、その時悲しみ哀れんで「大変でしたね」と言う事はありますが、後追い自殺まではしません。死んだのは「自分の子供」ではないからです。

他の例としては「自分の思い通りにできるもの」などと錯覚しているので、夫/妻に全く気遣いもせず、何かしてもらうのが当たり前と考えて挙句の果てに離婚する、などという事も「所有」と言う考え、錯覚が原因です。

前人未到の場所で金の山を見つけたとします。喜んで可能な限り金を抱えて持ち帰ろうと思いますが、歩いている内に金塊の重さに両腕はしびれ、脚は重たさに悲鳴を上げます。金を抱える事も石を抱える事も、重くて苦である事に変わりはないからです。これは喜んで抱えているものが、実は苦しみを生み出す原因だった、と言う例え話です。

簡単に納得できないということはあるでしょうが、「自分」「自分のもの」と言う考えは事実ではないので、事実でないことを事実だと思い込めばどうやっても苦しむ結果になる、と言うのは何となく理解できるのではないでしょうか。

*1:一部のカビは「自分の苗床」ごと人間に駆除されたりします。一部の人間は、「自分の家」ごと津波火砕流にまきこまれて死にます。

*2:感想、感情がなくて苦しいと言う感想、感情がある、というのは矛盾しているからです。

*3:「知らない奴だろうが何だろうが、そいつが欲しいものを手に入れることは気に入らない」と考える人がいるかもしれません。人の望みが叶う事が気に入らない、つまり「自分の都合」に悪いのです。これは相当な重症です。見ず知らずの人間さえも「自分」の都合で判断する「身勝手」の症状がかなり進行していて、日常生活でもあちこちで支障をきたしている可能性があります。

*4:解脱した人は、肉体を慈しみで生かしているだけで、特別生存には執着しないのでいつ死んでも良いと思っています。

*5:場合によっては自壊します。

受で止める

受(感覚)は、六根である目耳鼻舌体心に光音臭味接考が接触し、それらを意味付けする六識が合わさる事で生じます。
例えば目に光が入り、その情報を認識(眼識)、意味付けする事で眼受が生じます。

これはどう言う事でしょうか。例えば流行の服装をした人とすれ違ったとき、服装に大変関心のあるAさんは「あ、今流行の服だ。」と認識しますが、流行りの服装などに全く関心のないBさんはその通行人が目に映っていても「見もしません(認識、意味付けしない)」。

この場合Aさんには「流行の服装」と言う眼受が生じていますが、Bさんには服装についての眼受が発生していません(ただ、「通行人」と言う眼受は生じているかも知れません)。

この様に、人は無意識のうちに関心のある感覚に経験に基づいた意味付けをしています。これを「受を掌握する」と言います。受を掌握すると言うのは、つまり受を「自分の関心事」、「自分のもの」と思う事です。

これはほとんど誰もが無意識のうちにその様にしていますが、受は当然永遠には続かない無常のものであり、維持出来ず、それを自分のものと考えれば必ず失われます。

また、この様に受を掌握する人は、いつも好ましい受を求め、好ましくない受を嫌う心があるので、受が生じる度に心は揺れ動き、心は落ち着きません。これはつまり思い通りにならない、空虚で、苦である状態と言うことです。

逆に見れば、受を自分のものと掌握しない人、受は無常であり、必ず返却することになるレンタル品であると客観視出来るなら、受で一々心は動揺しません。この様に受を掌握しない事を「受で止める」と言います。これは「無我」を理解した状態とも言え、涅槃に到ると言っても良いです。

感覚の完全な消失、あるいは想(眠らず、覚醒している、意識がある状態)の消失を涅槃と解釈する説もありますが、ならば眠っている人や、全ての感覚が麻痺している人、あるいは肉体の死が涅槃と言う事になります。

何が事実なのかは各自で検証してみると良いでしょう。

因果に関する、触、中道、縁起、我語取、五取蘊について

 仏教には色々な教えがあり、因果、中道、三相、三学、縁起、四聖諦、五力、七覚支、四念処、八正道、など、本当に沢山の単語があります。これらを全部それぞれ丸暗記するのも大変で、時間もかかります。

 しかし、仏教とは心身に関する自然法則(ダンマ)の教えであり、まとめれば短いひとつの教えとして見る事が出来ます。究極的に短くすれば、仏教は原因と結果、つまり因果の教えです。

 因果とは、この原因があるからこの結果が生じる、この原因がなければこの結果は生じない、と言うことです。「何だそんなの当たり前じゃないか」と思うかもしれませんが、大多数の人は心身で生じている原因と結果の事など、気にも留めていないのではないでしょうか。

 しかし、ブッダは因果を深く掘り下げることによって、人は何故苦しむのか、何故「苦」と言う結果が生じるのかを熟慮し、ついにその仕組みを明らかにしました。明らかにすることは「明かす」「明める」と言うことから「あきらめる」「諦める」となります。仏教で使う「諦める」は、確かに望みを捨てる普通の意味での諦めるも含まれますが、どちらかと言うと「明らかにする」「解明する」「はっきりと見る」と言う意味でとらえた方が理解しやすいでしょう。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、ブッダは苦に関する因果を諦めたので「悟った。無上正等菩提智をすべて知った。私の解脱は衰退することはない。この生は最後の生だ。新たに生じる有はもう二度とない。」と宣言しました。これを獅子吼などとも言います。病気の原因がわからなければ対策、特効薬は作れないのと同じ様に、苦に関しても原因がはっきりわからなければ、対策は立てられないのです。しかし、ブッダは苦とは何か、ということと、苦の発生の仕組みを発見しました。これによって、苦が発生しない状態と、その状態の実現方法も発見しました。苦と、苦の原因と、苦の消滅と、苦の消滅のための方法の四つです。これを四聖諦と言います。般若心境で「苦集滅道」とあるのは、この四聖諦のことです。四聖諦を発見したので、ブッダは「悟った、大悟した」と宣言したのです。

 ブッダが大悟した当時、他にも苦について真面目に研究している人はいました。その時に唱えられていたいくつかの説があります*1

1.苦は自分(内側)が作り出すものだ

2.苦は他人(外側、外界)が作り出すものだ

3.苦は自分が作るものでも他人が作るものでもなく生じる

その他にも場合によって

4.苦は自分が作り出したり、他人が作り出したりする

という説もあったようです。これらの話はどれももっともらしく、今の人でもどれが正しいとすぐには結論が出せないと思います。

 しかし、ブッダは苦はこれらの説のどれでもない仕組みで発生していることを発見しました。それは、目耳鼻舌身心の六つの根(六根)に、対応する光音臭味触考*2が合わさり、それに対応する六識である眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識が合うと、「触(しょく、パッサ)」が生じる、と言う点が肝になっています。

 もう少し解りやすい例で考えてみましょう。目に何か物が映ったからと言って、人は必ずしもそれを「何かだ」とは認識していません。例えばファッションに興味のない人の前に他の人がいて、その人が着ているのが当節流行の服だったとしても「あ、今流行の服だ」などとは思いません。そもそも認識すらしないでしょう。しかし、ファッションに興味津々の人なら、その服を見た瞬間「その光、映像を自分の知っている何かだ」と認識する働きである眼識が生じるので、目、光、眼識の三者が合わさり「あ、何々の服だ!」と言う目の「触」が生じます。この時人は物事を「自分に関わって発生した事象だ」と(主観的に)認識するのです。

 この流行の服の例では、両者の目に同じ物が映っているのですが、前者(興味のない人)には目の「触」が生じませんが、後者(興味津々の人)には目の「触」が生じています。触が発生していない人には、その事に関する何事も生じないので、心は何も変化せず、苦は生じません。ところが触が発生すると、何かしら心に影響があります。心に影響がある、心が波立つ、と言うのはそれが喜びであれ悲しみであれ何であれ、実は苦です。

 この服の例えでは、前者の心には何も起きていませんが、後者の心には「あ!あの服!」というだけでさざ波が立っていますし、あるいは「あ~あの服いいなぁ欲しいなぁ」となるかもしれませんし、あるいは「あの服流行ってるけどイマイチだよね」などと思うかもしれません。いずれにせよ触から生じる感覚(この場合は目の感覚「眼受」)を「自分のもの」と掌握し、何かしら心に変化、つまり苦が生じています。縁起に関する詳しい話は他の記事などで説明していますが、触から掌握する六根の感覚、つまり「受」はそれを「自分のもの」と思えば苦の原因になるのです。

 苦の原因である、六根(目耳鼻舌身心)の感覚、「受」が生じるためには、「触」という原因があります。触は、六根および六識という「内側の原因」と、光音臭味触考という「外側の原因」が揃って初めて生じます。つまり、苦の発生の仕組みは上記の1~4のどれでもなかったのです。

 苦に関する真実は、苦は内側の原因だけで生じる、あるいは、苦は外側の原因だけで生じる、と言うどちらの偏った考えで示されるものでもなく、内側と外側の両方の原因が全て揃って生じる、と言う「中道」のダンマだったのです。これがブッダの唱える「中道」の直接的なものです。「中道」は他にも望んで快楽にふけることと、望んで苦ばかり求めることのどちらの極端に偏るのでもないもの、など色々な事で示されていますが、「縁起」中でも「触」に関する中道は最も重要な意味を持つと言えるでしょう。

 さて、少し縁起と執着についての関係も見てみましょう。縁起の中に渇望があって執着が生じると言う教えがあります。この執着には四種類があります。欲取、見取、戒禁取、我語取です。欲取は愛欲(主に肉体で感じる欲)の満足に関する執着、見取は見解に関する執着、戒禁取は間違った方法に関する執着、我語取は「自分」という概念に関するあらゆる執着です。

 どんな物事であろうと、執着がなければ縁起は発生しませんから、苦はありません。執着は「自分」と言う主体が原因で生じます。完全に「他人のもの」と思っている事に執着する人はいません。

 ここで誤解のないようにしたいのは、法律上他人の所有物や人、地位などの概念だと認識していても、もしそれを手に入れたいと考えれば、少なからず「自分の関心事」になっているので、広義には「自分のもの」と認識する執着があります。心の底から完全に「他人のもの」「他人事」とみなしていることに執着する人はいません。仮に誰かが死んでいたとしても、完全に見ず知らずの「他人事」なら、人は心を動かさないのです。

 逆に少しでも「自分」に関連のあることとみなすと、人は心を動かします。噂話なども、他人事なのですが「自分の関心事」になっているので興味津々になる訳です。ブッダは上記の四取が全ての執着である事を発見したのですが、中でも我語取が全ての執着の大ボスだと発見しました。何故なら「受」を「自分のもの」と思い込むことが苦の原因なのですから、「自分のもの」と言う執着を全て捨てれば苦は消滅するからです。この仕組みを発見したのはブッダだけであり、当然他の人は「我語取」を規定できていませんでした。我語取がなければ普通の人が認識している意味での「自分」がなくなるので、何にも執着はしなくなります。広義での所有の主体となるものがなくなるので、執着も当然残りません。これも原因(自分)の消滅による結果(執着)の消滅です。執着は「自分」の結果ですが、同時に「苦」の原因でもあります。執着と言う原因が消滅したので、苦と言う結果も消滅します。

 我語取が無くなれば全ての苦は無くなるので、我語取、自分と言う概念、つまり主観は無明そのものと言ってもほぼ差し支えないでしょう*3。また、五蘊(心身)を自分と思い込む執着である「五取蘊」が無くなれば、「自分」と思い込む対象がなくなるので当然「我語取」も無くなります。五取蘊と我語取は示す対象が「心身」と「自分」なので概念や説明が多少違いますが、どちらも無くなれば苦が終わると言う点では同じようなものと言えます。

 縁起で示される苦の原因である執着「取(ウパダーナ)」が消滅すれば、結果である苦も消滅します。普通の人が認識する、あらゆる所有の主体である「自分」と言う概念が無くなれば、苦は無くなると言うのが、苦に関する因果であり、ブッダの大悟したダンマです。このようにブッダの教えの全ては因果で説明されます。同じく重要な概念である「無常」は因果を説明するための大切な要素です。無常で変化するので好ましい状態は維持できず、失われ、結局苦になる、そういう苦であるものは自分、自分自身と執着できない、と言う「無常、苦、無我」の三相も、執着や縁起、因果の説明の一形態なのです。

*1:相応部 アビサマサンユッタニダーナ 16巻41頁76項

*2:この触はパッサの触ではなく、物理的な接触の意味です

*3:無明がある、つまり無知だから全ての出来事を主観的に見てしまう仕組みであり、無明が主観的な行、識、名身、、、を生じます。客観的であれば無明はありません。