ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

身体の中の無常と禅定

有為の全ては無常と言うのがブッダの大切な教えですが、油断すると直ぐにこれを忘れてしまうのもまた人と言うものでしょう。

例えば歩いているときの身体を見てみましょう。呼吸は常に止まらず、吸って吐いてを繰り返します。つまり循環です。 右足を出して左足、また右足、とこれも循環です。身体全体を見ても、位置は当然移動して変化しますし、右手左手、体内の血液、全て一ヶ所に留まっているものはありません。

目に見える景色も常に変化しますし、聞こえる音、臭い、口の中の状態、足の裏から来る感覚、心、やはり全てが変化しています。

仮に歩いていなくても、身体は一瞬たりとも新陳代謝を止めませんし、周囲の空気の分子も常に動いています。 完全に静止して、何も変化しないものを見つける事が出来ません。

しかし唯一止まって静かになれるものがあります。それは心です。心は物質で構成される具象ではないので、受(感覚)、想(覚醒、記憶など)、行(考え)、識(六根で認識すること)に振り回されなければ、止める事が出来ます。

これは簡単な事ではありませんが、深い集中をすることで可能な事でもあります。深い集中によって心が内外から影響を受けることを遮断することを、禅定と言います。深い段階の禅定になると、覚醒していても(眠ってなくても)心が外界からの影響を全く受けなくなります。

しかし、座っている時に禅定になれれば禅定を知ったと言う誤解はありがちです。肝心なのは普段の日常生活です。人間は普段の生活の中で生きていますから、むしろこちらでの禅定が必要なのです。特別な理由がない限り、死ぬまでずっと座ったままの人は、普通はいません。日常で何かあったときに、受(感覚)に左右されてすぐ感情に支配される人は、静かに座って深い禅定に入れるとしてもあまり意味がありません。感情に支配され輪廻しているからです。

「出たり入ったりする定は良くない」と言う言葉がありますが、これはこの様な事態を指摘していると見ることが出来ます。つまり普段の生活において禅定となっており、感情に支配される事がない注意力が常に働いていることを「禅」だと見ます。只管打坐(ひたすら座禅する)と言うのは、単純に文字通り座り続けると見るのではありません。常に五感に注意して、心に気を付けていると見れば、これはブッダの言葉に完全に一致します。

仏教は人によって言葉の解釈、意味が大きく異なるものですが、自分で理解しないと「自灯明」「法灯明」とはなりません。つまり、仏教は何が正しいのかを、各自が自ら良く見てみるべき教えと言えるでしょう。

無為

これまでも何回か述べてきましたが、有為のものと言うのは存在のために存在が必要なもの、原因と結果、発生と消滅を繰り返すものと言う意味です。 我々人が六根(五感と心)で認識しているものは全て有為です。 物質の色、形や音、臭い、味、触感はもちろんのこと、心で感じる考えすら生じては消えるものです。どれも永遠に続くものはありません。いつも変化しています。 つまり有為なものは、全て無常です。 肉体や心も有為なので無常です。

一方無為とは有為の反対のもので、存在のために存在が必要ないものです。例えば物理法則は、目に見たり手に取れる存在はありませんが、存在しています。 ブッダダンマ、つまり滅苦のダンマも無為のものです。 無為のものは発生しないので消滅もしません。循環に組み込まれていないので、永遠に存在します。 涅槃も無為のものですから、当然手にとって見ることも、音を聞くこともできません。しかし、物理法則と同じで存在を知る、感じる事は出来ます。つまり涅槃は手に取って見ることはできませんが、それを知る、感じることは出来るものです。 なので、自分が涅槃になる、とか涅槃を手に入れる、私の涅槃、などと言うことは出来ません。 なので正しい表現は「涅槃に到る」、「涅槃を知る」、あるいは「涅槃を感じる」と言う事になります。

因果

ブッダに最初に教えを受けたアッサジと言う比丘が托鉢している様子を見て、ウパディッサ(後のシャーリプトラ、般若心経の舎利子)は「あなたの師はどういう方ですか?どういう教えをされるのですか?」と聞くと、アッサジ比丘は「私もまだ入門して日が浅く、詳しくは教えられないが、私の師は全てのものの、発生の原因と、原因が消滅したことについて仰います。」と答えたとあります。

因果という言葉は誰でも聞いたことがあると思いますが、これは「原因と結果」を短縮した言い方です。因果応報と言う言葉も人は原因に応じた結果を受け取る、という意味です。

全ての因果を知ることは人間には難しいです。例えば、ある人(以降Aさん)が駅で定期入れを落としたとします。後ろの人(以降Bさん)に定期を拾ってもらえるか、あるいは無視されます。両者の分かれ道は何でしょうか。もっともわかり易いケースは、拾ってもらえるのはAさんがBさんに悪意を持たれていない場合です。無視されるのはAさんがBさんに悪意を持たれている場合です。

例えば電車に乗っているときに、Aさんが年配の人に席を譲っていて、Bさんがそれを見ていたりした場合は、拾ってもらえる可能性が高いです。Aさんがマナー違反をしていてBさんや他の人に要らぬ迷惑をかけて嫌われていれば、無視される可能性が高くなります。

実際の因果はこのように簡単なものばかりではなく、本当に巡り巡って何十年何百年もしてから結果が出るような例もあります。例えばある人が植えた木が、その人が死んで五百年後に有名な観光スポットになってその土地に恩恵をもたらす、などという話もあり得ますし*1、その場合関わった人が直接結果を受け取る訳ではありません。

また、定期の話でも、返してもらった結果だろうと無視された結果だろうと、また新しい出来事の原因になっていきます。この原因と結果の連鎖は留まる事がありません。まさに輪になった鎖、回転するタイヤの様です。このように原因と結果が次々生じて発生と消滅を繰り返すものを「有為」と言います。人間の肉体や心も当然有為です。無為についてはまた改めて記事にします。

全ての出来事、結果の因縁を見ること、業、カルマの話を完璧に知ることは生きている人間には難しいです。しかし、因果を完璧に知らなくても、苦を消滅させることは可能です。

なぜなら定期入れの例えを見ると、善い行為は善い結果をもたらしますし、悪い行為は悪い結果をもたらします。「そんなこと言っても善い事をしても無視される事はあるだろう」と仰らないで欲しいと思います。それはその通りですがそう言う話ではありません。

これは結果の何を良し悪しと見るかの問題になります。確かに善い行いをしても定期入れは返ってこないことはあり得ます。しかし、善い行いをした人は既にその時点で心に善い結果を受けているのです。

逆に悪い行いをした人はその時点で心に悪い結果を受けています。例えば電車の中で大音量でヘッドフォンステレオを聞いている人の心が静かな道理がありません。静かでない心は苦です。自分を苦しめている身勝手さは、自分の心への悪い結果にとどまらず、当然他人にも迷惑、悪い結果を与える可能性があります。

つまり心に注目してみれば、因果は明らかにその時点で見えるものです。この心の因果、つまり縁起が苦を減らす、あるいは完璧に無くすために知るべき教えと言えます。

 

*1:イタリアのヴェスヴィオ火山の遺跡なども一例です。亡くなった人は大変でしたが、2000年以上前の噴火の影響を何かしら受けている人が現代にいます。

心理学と仏教

ツイッターでのフォロワーさんとの会話から今回の話を書きます。私は現行の心理学を専門に学んではいませんが、フロイトは全ての欲求が性欲が原因と言う説を唱えていたと記憶しています。これは良い所をついています。

ブッダは心で掌握する苦を消滅させるために、欲のメカニズムを完璧に解明しています。つまり、無明が本来ある清浄な心を曇らせているという仕組みを明らかにしています。無明は自然界とも言えます。どんな動物でも自然界から個の肉体を維持することをプログラムされています。なので主観的な判断が心に巣食い、全ての現象を客観的に観察することを妨げます。全てを主観的に判断するので、何でも「自分の都合」に照らし合わせて判断、処理します。当然「生き残ること」が生物にとって優先順位が第一の行動原理になります*1。次に優先順位の高い行動が遺伝子の保存です。遺伝子の保存に繋がる行動はすなわち雌雄同体の生物ならば分裂、雌雄異体の生物ならば性的行為です。「個」、「自分」という執着をブッダは「我語取」と規定し、この規定によって他の宗教とは異なる完璧な滅苦が実現できると宣言しています。

このように個体を生き残らせる目的で自然界(あるいは無明)は全ての生物に「自分」という執着を持たせています。人間は「想」(サンニャー:自覚、記憶など)がある雌雄異体の動物なので、性的行為が生き残ることの次に優先順位の高い行動原理になります。男性の場合は、沢山の異性と交わることが個体の遺伝子の保存に有利なので単純にその欲求が性行為、つまりセックスに向かいます。セックスさえできれば良いと言う気持ちが強くなれば、平然と複数の女性と同時に関係を持ったりもします。酷ければ強姦までします。明らかな身勝手ですが、欲望に忠実な行動です。

女性の場合は、そう単純には行きません。長期間妊娠して出産すると言う生物的な理由から、設けることの可能な子供の数に制限があるからです。つまり女性には沢山の相手とセックスすることは、個体の遺伝子の保存に必ずしも有利には働かない、それどころか不利益が生じる可能性が高いのです。女性にとって能力が低い個体や、障害を抱えた個体とセックスすることは、自分の遺伝子を引き継いだ子供の生存に有利に働きませんので、セックスする相手に優秀な個体を選ぶことはとても重要です。ただ、優秀な個体をパートナーに望むことについては男女ともに同じなので、男女ともセックスする相手の外見は気にします。外見は奇形などの障害を避けるために最も簡単に個体の優劣を判断できる基準だからです。女性の場合は男性よりも子供の品質の優劣の問題が、非常に重要性が高くなると言う事です。


優秀な(つまり外見の良い)個体の競争率が高くなるのは男女ともに同じ事ですが、既に述べた様に女性にとって性交する相手の選別は切実な問題なので、パートナーの選定基準は当然男性よりも厳しくなります。外見だけでなく、財産、性格、社会的地位、その他自分と子供の生存にとってあらゆる都合の良いもの*2が性的行為のパートナーの選定基準になります。

しかし条件が良い個体の数は当然多くはないので、女性の場合同性間のパートナー選びの競争は自然と激しいものになります。このような優秀なパートナー選びの競争はすなわち、同性間で自分のランキングを高くする競争に繋がります*3。当然、女性は自分の外見を気にして着飾り、見栄を張り、パートナーや親戚、子供など身近な人間のステータスなども競争の道具にします*4。しかし人間の女性同士の関係は単なる競争だけではありません。その理由は、子供を育てるためにグループ、共同体に所属することが有利になるという面があるからです。したがって女性同士は競争しながらも一つの共同体に所属するという、原理が相反する行動を取ることが多くなります*5。自然と女性同士の人間関係は複雑になり、入り組んだ利害関係が生じます。中学高校などでも女性同士は数人のグループで固まり、利害関係が入り組んでいますが、だからと言ってあまり一人で行動しようとはしません。不利益が大きいからです。

また、女性は生理が終わり生物的に意味のある性行為を離れる年齢になっても、性欲から生じる同性間の競争の欲は通常そのまま心に残滓としてこびりついていますので、何もしなければ死ぬまで消えることはありません。年配の方でも服装や自分の外見への執着が強く残っている女性は多いです。男性は意味のある性行為がほぼ死ぬまで可能なので(もちろん個人差はあります。)、やはり死ぬまでセックスそのものに惹かれます。このようであれば結局男女とも死ぬまで性欲を抱えたままです。ブッダの観点から見れば、欲を抱えたまま死ぬことは輪廻からの解脱に繋がりませんので、このような死を非業の死と見ます。

性欲は直接その方向に発展するか、あるいは変化、分化して、様々なフェティシズムを生じます。また、性欲が良い形を見たいとか、心地よい音を聴きたいとか、良い匂いを嗅ぎたいとか、美味しいものを食べたいとか、心地よい接触、特にセックスをしたいなどの五欲の原因になり、良い考えに浸っていたいと思う妄想の原因になります。

このようなあらゆる喜びの受(喜びの感覚)への欲望を「渇望」と言います。男女とも性欲も含めた喜びの受を味わうためにあらゆる手段で頑張ります。たとえば勉強して良い大学に入り、良い会社に就職する、外見を整えるなどの努力をします。このような考えをいくら強くしても、他者の利益、思いやりという概念は生じてきません。つまり喜びの受を味わいたい、というのは身勝手な欲望に分類されます。あらゆる身勝手な欲望は生存欲と性欲が起源なので、フロイトの言説はあながち間違いではないどころか、かなり事実を言い表した正確なものと言えます。また、身勝手が強まれば、他者への気遣いはどんどん減り、心は麻痺して加害行為も平気になってきます。戦争も含めたあらゆる争いごと、人間同士の問題はこう言う心理状態が原因で生じます。欲の達成が邪魔されると怒りになりますので、欲は怒りの原因にもなります。

また、普通は自分の心の仕組みを全て自覚的に把握できないので、フロイトはそういう自覚できない部分も含めて自我、エス、超自我と言うような考えで説明しようと試みたのでしょう。上記のような欲や怒りのメカニズムは中々客観的に把握できません。これをブッダの観点では無知、愚痴と呼びます。つまり無明です。

ブッダは苦に関する全てを見ていますので、全ての欲求が無常で変化するものを、自分の都合よく永遠に維持しようとする考えが無明だと明らかにしています。このような無明は当然客観的事実である無常の変化との齟齬を生じます。つまり生物は永遠、不変を欲するのに事実は変化し、不変でないので矛盾を引き起こし、苦になるとブッダは教えています。

無意識による無明から生じる考えから、内部の原因があり、外部の原因も合わさって触が生じ、受を自分のものと思い込んで執着し、苦になります。この縁起の教えが、フロイトの試みた自覚部分と無自覚部分のところまで含めて完璧に説明しています。

無明があるので欲があり、怒ります。無明つまり無知を捨てて真実をありのままに見れば、欲も怒りも消えるのです。

*1:場合によっては他者の生存を優先するとか、死ぬべき時に死ぬこと、などが選択肢に入らなくなります。

*2:事実は必ずしもそうではないのですが

*3:男性の場合はセックスさえできれば多少は妥協できるので、一般的にセックスパートナーを争奪するための同性間の争いは女性のような様相にはなりません、ただし、他の競争はありますし、陰湿な嫌がらせなども当然発生します。この仕組みも無明で説明できます。

*4:これは一般論です。当然このようなことを重視する男性もいます。

*5:女性同士が表面上仲良くしながら、いなくなると途端にその人の悪口を言い始めるという様な話を良く見聞きしますが、上記の理由から見れば当然のことと言えます。

立体視

15年位前でしょうか、立体視の絵が一時期流行したことがあります。特に点の絵から立体が浮かび上がるタイプのものは、見えないと本当にただの点の集まりの絵でつまらないものです。

悟りもこれに近いものがあると思います。例えば日本人なら多くの人が桜が咲いたのを見て「美しい」と思います。 しかし、受を知り尽くしたなら、「世間で美しいと言われる桜が咲いている」と見えるようになります。

人は「美しい」と思った瞬間に喜びの受が生じています。 しかし、全く客観的に桜の花を見たら、その形と色を目で知覚するだけで、心は動きません。見えている画像は同じなのに、心の状態はまるで違うのです。

こう言う状態を「縁起が消滅した状態」とか「識受滅」などと呼びます。要するに全ての物事を主観でなく、ただ客観的に見る(目の感覚に限りません)ので、肉体的な感覚があっても感動して陶酔することもなく、嫌悪して忌み嫌う事もありません。 常に客観的に見えるので、「美しい桜」と見て「心が陶酔した自分」が生じません。

繰り返しになりますが、これはすなわち無明から生じる縁起の流れが消滅した状態です。貪瞋痴が減ればこの様に好むことも嫌悪することもなくなりますので、心は常に平静です。この様な状態は、実に静かであり、この様な静かさは最も高級な幸福とも言えます。苦が無いからです。

避けるべき輪廻

輪廻転生は肉体が死んで生まれ変わる事に限らないと言う話をブログには書きましたが、そもそも輪廻は良いものでしょうか、それとも避けるべきものでしょうか。 「肉体が死んだあと、全く記憶が消えるなら同じ人生を歩んでも構わない」と言う人もいます。 それは恐らく生きることの苦を実感できる程の苦を味あわない人生だからでしょう。一種の、いや、そう言う人は天人なのです。 しかし、やはり世の中は無常ですから、積み上げた徳も衰退し、肉体も当然滅びます。次の生が今生と同じ様に良いと言う保証はどこにもありません。 これは肉体が死んだ後の話に限定すべきではありません。 明日、あるいは今日かも知れないのです。極端に言えば、今日突然車に牽かれて半身不随になるかもしれないのです。 そうなってから先程の台詞が言えるのでしょうか?「同じ人生を歩んでも構わない」と。 生きることの苦を見ると言うのは、理解しにくい事であるのは確かですが、一刻も早く知るべき事でもあるのです。 何故なら誰にでも死の時刻は近づく一方で、決して逃れることは出来ないのですから。

急いで学ぶべきダンマ

ブッダの言葉には、「ダンマを学ぶなら髪の毛に火が付いている人のようにとか、身体に毒の矢が刺さっている人のような気持ちで急いで真剣に学びなさい」とあります。

何故それほど急かすのか不思議に思ったものですが、良く考えてみるとこの世は無常で、人間はいつ突然死ぬかわかりません。当時なら暴れ象に踏まれたり、野盗に襲われたり、毒蛇に噛まれたり、いくらでもその可能性はあります。 現代でも事故に遭ったり、食中毒や脳卒中、心臓発作などで今日死ぬ確率は決してゼロではないのです。

折角ブッダダンマを学ぶと言う非常に希少な機会を得たのに、成果を得ないまま死ねば丸々無駄死にと言う事になります。

ましてブッダダンマは普通の感覚では相当に理解しにくい話なので、出家してブッダを師として仰げる様な機会は他にありません。

実際、私達現代人は存命中のブッダ本人から教えを乞う事は不可能です。残っている教えから正しいものを抜き出さなければならず、本人に質問も出来ないのです。

しかし私達も、直接肉体のあるブッダから学ぶことが出来ないとしても、ブッダダンマに興味を持てて、学べると言う事はやはり非常に希少な機会と言えます。

滅多に来ない絶好のチャンスボールをむざむざ見逃したら、次に似たような機会がいつ来るか見当もつかないのです。二度と来ないかもしれません。

私達もこの貴重で本当に希少なこの機会を無駄にしない様に精進するべきでしょう。