花を美しいと思う心
美しい花を見て「美しい、、、」と感じたり、赤ちゃんや猫などを見て「可愛い、、、」と思う人は沢山います。
至極普通の事ですが、ダンマの視点から見ればその人達は目で見た美しさにうっとりして陶酔しています。美しさ、可愛さを「自分のもの」と掌握するので、好ましい感覚にどっぷり浸かります。
何故そうなっているのでしょうか?それは、もし赤ちゃんを可愛いと感じなければ、育てるのは大変労力のかかる事なので、どの生物も真面目に子供を育てようとしなくなるからです。
何故美しい花を何故好ましいと思うのかと言えば、毒でない色、生存に都合の良い色、形を好ましいと思わせないと、生物が何かを食べたいとか、生殖したいなどと思わなくなってしまうからです。
そうならない様に、生物に生存と生殖を促すために、生物には好ましい、うっとりする色や形、音、匂い、味、触感、考えと言うものがプログラムされています。
「赤ちゃんが可愛い」とか「花が美しい」のではなく、「そう感じる様にプログラムされている」のです。この真実は中々普通の考えでは見抜けません。
実際に、全ての望ましい、愛らしい色や形、あらゆる好ましさは無常で必ず変化しますので、浸かれば浸かるほど、陶酔すればするほど、その陶酔の対象を失う苦しみも大きなものとなります。
必ず花は散り、可愛い赤ん坊はいずれヨボヨボの老人になります。 大好きな、愛する恋人や家族と別れなければならないとき、死ぬほどの苦しみを味わいます。好ましい何かを手に入れられず自殺する人も沢山います。
目で愛らしい、好ましい色、形を見て「美しい」と感じるのは、目に光が入って眼識が生じ、目、光、眼識の三者が会合して触が生じ、触が縁で受が生じるからです。 この受が縁で渇望が生じ、 渇望が縁で執着が生じ、 執着が縁で界が生じ、 界が縁で生が生じ、 生が縁で老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩み、苦の山が生じます。
第一義諦(ブッダの視点)から見ると、花を見て美しいと思う気持ちは、好ましい異性を見て欲情するのと全く同じ仕組みです。
好ましい形に陶酔するのはもろに六根の喜びであり、これを「自分の感覚」と掌握すれば苦です。この様な事を普通の価値観の人に言えば不愉快な気分にさせる可能性が高く、時と場合を選ぶ必要があります。しかしこれは客観的に苦を知るための真実でもあります。
大多数の人は、六根の喜びに陶酔していて、美しく可愛いものが大好きで、美味しい食べ物を食べる事などを幸福と感じ、楽しく気楽な事を好み、普通はじっくり腰を据えて最高の真実であるダンマ(縁起、四聖諦)を見ようとはしません*1。
しかし、生きることの苦について真摯に考える仏教徒ならば、その様に世俗諦(世俗の、世間一般の価値観)に埋もれるべきでないことは知っている筈です。
陶酔して渇望することの凶悪な害を知れば、釣り針の入った餌である六根の喜びに無防備に飛び付くことは恐ろしくて出来ません。
自然界、つまり無明からプログラムされた個体を生存させるための「自我」と言う感覚と、それに伴う「渇望(特に性欲)」「執着」などは、振り払って捨てるべきものです。
自然界(無明)の罠と知っていながら抗えずに六根の喜びを貪ってしまうのは、まだ害がはっきり見えていないことが理由です。
六根の喜びの凶悪な害を知って、それらの受に陶酔することの害を真実ありのままに見ることが出来て、その喜びの受から離れることが出来て初めて「その受を知り尽くした」と言います。
その受から離れられないうちは、「知り尽くした」と言えないのです。これは、例えばピアノの曲を譜面から弾き方から何から完璧にマスターした時初めてその曲を「知り尽くした」と言えて、楽譜とにらめっこしたり、タッチなどを懸命に確認しながらでないと弾けない様では何かに頼っている訳で、「知り尽くした」と言えないのと同じ様な話だと言えるでしょう。
*1:そもそも普通は四聖諦を知りませんし、知っていても中々実践は出来ません。
怒りと性欲、その仕組み
ブッダの教えを見ていると、ほとんどが欲(特に性欲)と怒りの話と言う印象を抱くことがあります。
考えてみれば確かに人が苦しむ原因の大部分は欲と怒りなのです。
欲(性欲)は素早いもので、多くの男性は魅力的な女性が近くを歩いているだけで目が釘付けになり、その人との性交を想像したりします。既にその時点で大変な心のエネルギーを消費するので、苦なのですが、普通はそれが苦だとすら知りません。
性欲は個体の遺伝子を残す目的の欲で、個体が「生き残り続けたい」という一番強い欲の次に強い欲です。完全に客観的に見れば、これは自己中心的な欲望であり、我、身勝手さが原因の欲だと見えます。
仮にそう言う魅力的な女性と性交出来たとしても、それが好ましいものならその女性と性行為への執着はもの凄く強くなります。また、付き合い、性病、結婚、妊娠、子育てと言ったあらゆる苦労の原因となり得ます。
多くの人はそれが苦だと明らかに知らないので、ブッダ曰く「苦の海を回遊する」事になります。好ましい受(この場合はセックスの快感)の満足の威力で渇望とそれに伴う執着は際限なく増大し、無常による老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩みが生じる原因になります。
女性の性欲も素早いことに変わりはなく、余裕がある状況なら好ましい男性がいれば一瞬で見つけます。また、女性同士で会ったときに、相手の顔、服装、アクセサリーなども一瞬で把握します*1。この外見チェックと同時に自分との比較も含めた格付(ランキング)がなされます。このランキングは上記の理由から非常に正確で、例えば好みの男性が同席するような場に自分より魅力的な女性が来るのを排除する目的等に活用されます*2。
こういう欲から生じるあらゆる行為は、客観的に見られればとても疲れてうんざりする話だとわかってきます。これは人生の経験が多い人、例えばご年配の方の方が、若い人より理解しやすいかもしれません。
怒りもとても素早いもので、例えば横断歩道を歩いているのに車からクラクションを鳴らされ、カッとなって「何だこの車!?(怒)」と思ったりします。クラクションを鳴らした運転手も当然何かしらイライラして鳴らしているので、当事者が両方ともイライラして怒っています。
クラクションを鳴らされて驚き、そこから怒りが生じるまでおそらく一秒もかかりません。怒りを抱いている人はその間中地獄の住人(死人、亡者)になっているとすれば、人が死人になるのに一秒もかからないと言う事です。
実は怒りも「安全に生き続けていたい」「都合の良い状態で居続けたい」と言う我、身勝手さから来る欲望が原因になっています。なので、少しでも状況が不愉快や危険になると、自分の都合にそぐわない状況に対して怒りが生じるのです。客観的に考えれば、いつ死んでも良いと本心から思っている人なら、自分を殺してくれる相手に怒りを向けることはないのです。怒りは身勝手な自己都合から生じると言う仕組みも理解しておいて損はありません。
この様な欲や怒りは、もとをただせば客観的に物事を見られていないこと、つまり無明(愚痴*3)が原因です。無明があって「自分」という間違った感覚があるので、欲や執着が発生し、怒りもそれに付随して生じます。
仏教では良く貪瞋痴(欲、怒り、無知)の順で語られますが、発生原因の順で言うと、痴→貪→瞋になります。 しかし、六根の喜びは苦、という事が一番理解しにくいので、まず喜びの受に対する貪欲、次に気に入らない受に対する怒り(瞋恚)、最後に無明である愚痴の順番で説かれているのでしょう。
怒りと苦しみ
怒ると言うのは本当に苦しい事で、怒っているときに無上の幸福を味わっている人はいないでしょう。
私もダンマを学んで実践するまでは、瞬間湯沸し器の様にすぐカッとなる様な性格でしたが、それこそ毎日24時間、我、身勝手を減らす様に心を注意してきて、最近はほとんど怒ると言う事がなくなりました。
イラっと来ることも滅多になく、仮にあっても全く永続きしません。心が怒りから離れると、不幸な時間はほとんど無い事に気付きます。
怒っている間は、心は平静とは対極の状態にある訳ですから、この世で最も不幸な状態であると言えます。
怒っていなくても、欲にかられているときや、不安なとき、嘆き悲しんでいるときなども怒るほどではなくてもやはり不幸です。
この様な心が不幸な状態を、ダンマでは「苦」としています。怒ったり、嘆き悲しんでいるときは少なくとも楽ではなく、苦しいので、これは妥当な定義ではないでしょうか。
どうすれば怒らずに済むか、と言う詳しい話はブログに記事がありますので、そちらをご覧頂ければと存じます。
簡単に言えば、怒る理由は「自分の都合」通りに行かないからです。「自分の思い通りになれ」と言う身勝手さがなければ、怒りは生じません。
そうは言っても簡単に身勝手さは減らせないので、「地道な日頃の努力」と言うありふれた、多くの人はあまり聞きたがらない事以外に方法はないのが現実の厳しい所だと思います。
怒りを少しでも減らして頂き、読者の皆さまの苦が減ることを願っております。
無明、我語取、五取蘊
縁起は、真実をありのままに見られない状態である、無明から執着が生じて苦になる事を教えています。
無明があるので四種の執着(取)が生じます。欲取、見取、戒禁取、我語取です。欲取とは五欲(目耳鼻舌体)の満足への執着です。見取とは自分の考え方に対する執着です。戒禁取とは、効果のない祈願、儀礼、儀式を正しいと思い込む執着です。我語取とは、これら全ての執着の原因となる「自分」「自分のもの」と言う感覚への執着です。
我語取さえ捨て去れれば(抜き取れれば)、他の全ての執着は捨てる事が出来ます。何故なら執着する主体となる「自分」と言う発想がなくなるからです。自分がないのにどう執着するのでしょう?これは不可能です。
この様に我語取を捨てる事が出来れば、無常のものを間違って「自分のもの」と掌握しないので、苦はありません。これが苦の終わりです。
五取蘊とは何でしょうか。五取蘊とは体である「形」、感覚である「受」、自覚、記憶などである「想」、考え、心を作り出す「行」、感覚をもたらす認識作用である「識」のこれら五蘊を「自分自身」「自分のもの」と執着することです。五取蘊を捨てられれば、これは我語取を捨てられたのと同じなので、やはり苦の終わりになります。
いずれにせよ、無常で変化するこの心身を「自分」「自分のもの」と執着しなければ、苦はありません。
要約すればこれがブッダの教えの全てであり、完璧な滅苦を行うための唯一の方法です。
縁起と輪廻
肉体の死後の輪廻は皆さん関心のある話題の様です。
第一義諦の縁起の話も生老病死の因果の話があるので、死後の輪廻について語られていると言う見方も当然あり得ます。むしろそう取る方が自然です。
ブッダは普通の人が死後に再び生まれる原因は渇愛(欲望)だと述べています。この死を文字通り肉体の死と解釈しても良いのですが、それだと苦は一生のうちに一度しか生じない理屈になります。
人生を通じて実際に苦しい思いをするのが一度な訳はないので、縁起の教えが肉体の生死だけに限定されると見るのは無理がありますし、現実にも当てはまりません。
何よりブッダは度々「生きている間にすべきこと」「渇望を捨て去り、今後気を付ける必要がある/ない」と比丘に教えています。このことから、第一義諦である縁起に述べられている苦は、肉体が生きている間に何度も生じる頻繁なものであることを示唆していると言えるでしょう。それならば人生において何度も苦が発生する事実とも合致します。
しかしもちろん、縁起はまるきり肉体の死後の輪廻を否定もしていません。死後新たに生まれる事を許容するなら、なるべく善行をすべきでしょうし、本当に輪廻を害と感じて、輪廻から抜けたいなら渇望を捨てて縁起の流れを消滅させるべきでしょう。
この辺は各自が何処を目指すかと言う話になってきますが、ブッダは「輪廻は害」とはっきり述べていますから、やはりこのダンマを学べたことを貴重な機会と見て、輪廻から解脱することを目指した方が良い様に思えます。
議論と口論
ブッダが教えを説いたインド周辺では、議論が盛んな文化があった(ある?)ようです。
多くの人々が「何故?」と言う事を良く考え、感情的に少々不満を感じても、論理的に納得できれば認めると言う考え方は、日本にはやや馴染みが薄いのかも知れません。
しかし国がどこであろうとも、誰でも自説を頭から否定されればムキになり、争いを招く火種になりえます。そこでブッダはその様な争いを招かない様に、細心の注意を払ってダンマを説いた様です。
経に良く見られるブッダの手法は、相手が何かを主張したとき「私はその話を肯定も否定もしません。それは貴方の正しさです。ところで私はこう思うのですが、これについて貴方はどう考えますか?」と持って行くものです。
確かに、多くの人は世俗諦を前提に物事を判断しているので、世俗諦を議論してしまうと相手の意見の否定なしにブッダの説くダンマ、つまり第一義諦に話を持っていく事は出来ません。
つまりブッダのやり方は、相手の機嫌を損ねずに相手の話を置いといて(有り体に言えば放置して)自説を聞かせると言うものです。
こう見ると一見酷いやり方の様ですが、相手を嫌な気分にさせずにダンマの話を聞かせるためには、他に適当な方法がないことが見えてきます。
ただでさえ理解が困難なダンマを、自説の正しさを信じてやまない議論好きの相手に説くのは容易な事ではなかったでしょう。しかし、論理の筋道を正しく見る習慣のある人なら、ダンマは理解しやすい面もあります。
逆に感情や気分だけで行動して、筋道などは考えない人にダンマを説くことはとても困難でしょう。そう言う人は我が強く、筋道よりも自分の都合ありきですから、ダンマを見ることは難しいと言えます。
そう考えるとブッダが行った布教の道は、本当に一筋縄では行かない大変なものだったのだと想像されます。しかしその大変な偉業のお陰で今日私達はブッダダンマを学ぶことが出来るので、ブッダ、ダンマ、それを伝えて下さった僧侶(サンガ)の皆さんへの感謝を忘れないこと、そして何より苦を減らして行き利益とすることが大切です。
徳と仏道修業
ブッダがアジャータサトル王に教えを説いたとき、王が在家信者となる意思を示したと言う経があります。
ブッダは弟子の比丘に、「王から深い信仰を感じた。もし王が父王であるピンピサーラ王を殺す罪を犯していなければ、彼は出家して阿羅漢となっただろう。」と言ったとあります。
この話は良く徳(パーラミ)と仏道修業の成果の関係を示す例えとして引き合いに出されます。
この話は次のように解釈できます。 アジャータサトル王は、父殺しと言う大罪を犯してまでして王位を手に入れました。もしこれをしていなければ、父王は生きているのでアジャータサトル王子は素直に信仰に準じて出家できた筈です。
しかし、アジャータサトル王は父を殺してまで王位に就いたので、ブッダの教えを聞いて出家したくても、「父を殺してまで手に入れた王位を無責任に手放す事は出来ない」縛りが生じているため、状況的に出家出来なくなってしまっていたのです。
この様に徳、行いによって生じた環境が、仏道修業に影響を及ぼすことは間接的な因果だけでなく、直接的に明らかな理由で説明される事もあります。全ての場合がこの様に明らかとは限りませんが、普段善を為して仏道の正しさが見える様な心の状態になっていれば、得られる成果もそれに応じて高いものになると考える事は出来ると思います。
ブッダの教えを直ぐに信じなくても、善を為すことで損をする事はないと正しく見ておけば、滅苦の道は自然と開けるのではないでしょうか。