虫、殺生
普通に生活していれば、蚊を叩いて殺す、あるいはハエを殺虫剤や蝿叩きで殺すと言う事はあると思います。 鶏を飼っている家なら肉にして食べることもあるかもしれません。 この種の日常的な殺生は、生活のため、生きるために必要なものとして自然に受け入れられています。
そもそもこの世界は生存するためには他の生命を殺して食べる事が要求されます。また、意識せずとも人間の体内では免疫機能が体内に入った微生物を殺しています。つまりこの世で肉体を生存させ、維持するためには完璧に殺生から離れる事は出来ません。
しかし、だからと言って普段の生活で無駄な殺生が全くないかと言うと、そんな事はないでしょう。蚊や蝿を殺したり、ゴキブリを殺すのは、生存するためにどうしても避けられない殺生と言えるでしょうか。
特に蚊に刺されそうだから叩いて殺す、と言うのは「刺されたら痒いから」とか「羽音が不快だから」と言う理由が主で、他には「病気の可能性」とか「血を吸われるのが不快」と言う理由です。
これらはいずれも自分の「快適」を基準にした主観的な考えから生じるもので、少し不快な痒さや音に耐えれば生死に関わる程の問題ではありません*1。
加害の気持ちを持つことは、「自分の都合」での視点を強化しますので、「自分」と言う執着である我語取が強くなる害があります。これは苦を増やす方向ですから、滅苦を目指すべき人間にとっては大きな害です。不要な殺生を避ける事は苦を減らすために必要不可欠な事です。
「痒いのは苦しいのに、痒くなるのを我慢しろと言うのは矛盾しているじゃないか」と言う反論は当然考えられますが、これは損得をトータルで見る事が出来ないので生じる誤解です。
例えば自分の最愛の者が溺れていて手をさしのべたときに引っ掻かれて血が少し出たからと言って怒り狂ったり、大騒ぎする人がいるでしょうか。血を流した損より最愛の人の命を救った利益の方がはるかに大きいと考えるので、そんな程度の出血や怪我は気にならないのではないでしょうか。
蚊に対しても少し位の血をあげて、その食事を与えたと考えられるなら、それは功徳であり、その利益の大きさを見れば痒さや血を大きな損と考えないのではないでしょうか。しかし普通の人はこうは考えられません。
「最愛の人」と「そこらの十把一絡げの害虫である蚊*2」と言う差別があるからです。この差別が善悪、美醜、大小、長短と言った陰陽を生じるので、比較が生じ、苦となります。
結局「苦とは何か」、「何が苦なのか」と言う真実がはっきりと見えないうちは、苦から逃れることは出来ません。
病気などもそうですが、正体がはっきりしないものに根拠のある対応は出来ません。当然、苦が何かを明らかに認識出来ない状態で苦から逃れることは出来ません。
殺生、加害は縁起と同様に深い問題なので、皆さんも熟慮されてみることをお勧めします。
絶対的、相対的価値観
寂しさ、孤独感とその克服
そもそも自分の心身すら思い通りにならないのに、家族でもそうでない人でも、完璧に自分に都合よく振舞ってくれる人が身近に居て欲しい、というのが無理な要求なのです。
戒律、パーティモッカと経典の内容
ブッダはダンマ(ブッダの示す真実、教え)を説き始めて間もない頃、サンガ(比丘、出家の集団)の規模が小さく皆に自分の目が届いて直接教育できるうちは、比丘の理解も深く行いも正しいのでパーティモッカ(戒律、決まり)は定めないが、サンガの規模が大きくなり、素行に問題のある比丘が出始めたら戒律を定めるとあります。
ダンマを十分理解している人にとっては、やって良いことと悪いことの区別は明らかな事なので、一々「あれはいけない、これはいけない」などと言われるまでもないのです。
これは視点を変えれば、戒律は増えれば増えるだけ全体としての比丘の質が落ちた、と見ることも出来ます。
今は227もの戒律が伝わっていますが、内容を見てみると仏像に関する戒律などもあるので、ブッダの存命時には戒律はここまで多くはなかった筈です*1。
また、この227戒には「自分で使った寝具は自分で片付ける」とか「ご飯でおかずを隠しておかずをせびらない」など、出家なのに一々そこまで言われないと解らないのかと思う様な水準の低い内容も混ざっていて、ありがたい教えと言うよりむしろ呆れる類いの話も少なくありません。
バーラージカ(僧籍追放)の決まりや五戒、十善などはまだ参考にもなりますし、さもありなんと言う内容ですが、227はいくらなんでも増えすぎであり、これらを全部暗記する事に時間を費やすよりも、ダンマの本質を学ぶ方がはるかに重要だと言えるでしょう。
また当然、この様に戒律が増えてしまったサンガの状況では、ダンマの理解も怪しいものになり、教えや経典に様々な異物が混入した可能性を考慮すべきでしょう。
この事から経典は古いものほど信頼できる可能性が高いと言えます。後付けのものは後世の弟子が付け加えたものであり*2、ブッダが直接述べた内容ではない可能性が高いのです。
もちろん初期の経典だからと言ってもうのみには出来ませんが、後世の物よりはブッダの教えに近い可能性は高いのです*3。肉体のあるブッダの居ない現代に生きる私達は、なるべく初期の内容である縁起、四聖諦の話から矛盾の無い体系を抜き出して学ぶ事が、最も正しい教えに近づける可能性が高いと言えるでしょう。
戦争、争い、恨みについて
今年で原爆投下から70年が経つ事になります。また、今日は長崎で原爆が投下された日でもあります。兵器は人を殺傷する目的の道具であり、全てが非人道的なものですが、原爆はその最たるものであり、決して使用してはいけないものです。どの様に取り繕った所で、戦争、中でも核兵器に関われば必ず不幸になります。
戦争や紛争は人の集団同士が殺し合う大変愚かなものですが、全ての争いの原因は突き詰めれば個人ごとの利己的な欲望に起因します。人より少しでも多く喜びの受(感覚)を得たいと言う身勝手な考えが、あらゆる不和の原因なのです。
仏教では戦う相手は自分の悪い心だけであって、他の人と争う様な事は行ってはいけないと教えられています。
ブッダは弟子同士がダンマ(仏法)について口論している所に来て「争ってはいけない、恨み事は恨まない事によってのみ解決する、これは古い教えで、永遠に使えるダンマである」と教えたとあります。
ブッダが滅苦のダンマを見出だす以前から、争いは恨まない事によってのみ解決すると知られていたのです。
人間は自然のままの心では、どうしても害をなされるとその相手に害意を抱いてしまう傾向があります。しかしそこで踏ん張って、害意と言う毒を心の中に抱かない事で平和が実現できるのです。
「やられたら、やり返す」と言う教えは、低い道徳の水準では便利に使えるので広く普及していますが、仇討ちが新しい憎しみを生み、更なる仇討ちを生じさせてしまいます。つまりこれは悪い循環を生む教えで、ブッダの勧める苦を減らすための真実ではありません。
実践は簡単な事ではないのですが、「怒らない」「恨まない」事に最上の利益があると言う真実を明らかに見て、その利益を得るのが最上の道です。ブッダのダンマは、実践は到底容易とは言えませんが、人間にとって最高の利益をもたらすものです。
核兵器と原子力
あまり世俗の話をどうこう述べても因果、縁生の循環の話にしかならないのですが、原子力の問題はその循環を見るための好例と言うことはできます。
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されてから今年で70年が経ちます。被爆された方もその大半が亡くなり、年々生の体験談を聞ける機会は減るでしょう。
ひとつ確実に言えることは、核兵器は何の利益も産み出さないと言うことです。もちろん兵器は全て捨てるべきものですが、核兵器などはその最たるもので、何の存在価値もありません。
しかし、人間はまだ兵器を捨てられるほどには十分に賢くなく、無明にとらわれていて真実が見えていません。無知なので喜びの受を多く得るために他者の生命や財産を暴力で脅かすのです。これを国家規模で行うのが戦争です。
また、喜びの受を餌にして処理できない毒を生成する機械を使って発電するのが原子力発電です。例えばあなたは便利だからと言って処理できない毒を発生する洗濯機、掃除機、冷蔵庫、電子レンジを使いますか?
一定の智慧があれば毒よりは少しの不便を選択します。しかし、無明に覆われているので目先の利益に飛び付いて毒を選択するのです。
電気が足りないなら夜寝れば良いのではないでしょうか。暑いなら団扇を使う、寒いなら服を着る、色々と工夫はできる筈です。電気は高々ここ百年前後で普及したもので、何も電気がなければ人類が死滅する訳ではありません。
しかし、大規模な放射性物質汚染が世界中に起これば、人類だけでなく地上の生物が死滅する可能性があります。そして実際現在地上に用意されている核物質は、容易に地上の生物を殲滅できるのです。放射性物質を無毒化できる技術があるならまだしも、毒性を浄化出来ない現段階で、便利だからと言って原子力を安易に利用していれば、因果の法則を見れば決して良い結果が得られない事は容易に見えます。
福島の事故はその好例です。人が寿命を全う出来ずに死ぬ結果が生じるのは、その様な原因があるからです。善因善果、悪因悪果は法則なので、これから逃れる事は出来ません。
嘘の損得
平然と嘘をつく人を見かけることは珍しくありません。人を導く立場である筈の聖職者、教師などでも嘘を付いている人は残念ながら少なくない様です。
これは何故でしょうか?それは嘘を付いた時に生じる大きな損失が見えずに、嘘によって得られるその場凌ぎの小さな利益だけを見ているからです。
行きたくない場所に呼ばれたときに、「あ~その日はちょっと別な用事があって」とか、休みたいからひいてもいない風邪を引いたことにして「本日は体調が悪くて」などと嘘をつきます。
自分が欲しいのに「子供のプレゼント用に」などと言って物を買ったり、何万円もする服を買って「あ、これはほんの安物」などと嘘をつきます。
親が子供のお年玉を盗んだのを「貯金したから」と言って誤魔化す様な嘘も良くある事例です*1。
ほとんどの場合、嘘は既にある罪を隠すためにつくので、元の罪が放置されるだけでなく、更にそれを嘘の罪で上塗りするのです。
腐ったゴミの臭いをきつい香水で誤魔化す様な物で、綺麗に掃除した清潔な望ましい状態からは離れる一方です。
嘘をつけば一時の追求を逃れると言うほんの少しの偽物の安楽を得られる事もありますが、本質的には何も解決していません。また、嘘を付いたその心の状態が既に物凄く悪い状態であり、安楽、平静とは程遠いのです。
長いこと逃亡生活を送っていた犯罪者が、逮捕された時にむしろホッとすると言う心理状態があるのは、逃げて隠し続ける大変苦しい状態をそれ以上続けなくて済むからです。
他の例えで言えば、嘘を付くのは手形を不渡りにしないために違法な金融業者から新しくお金を借りる様なもので、まさに地獄と言えます。
ただで100円貰えると思うので嘘を付くのですが、その100円を得るために後々10万円払わなければならないと知らないのです。
知っていたら誰もそんな事はしないのですが、「ばれなければ大丈夫」などと愚かな事を考えるのでまた今日も懲りずに嘘をつきます。
損得を真実ありのままにはっきりと知る事で、損になることである罪業、その代表である嘘を避ける事が本当の利益になることを知りましょう。
そして的外れな見方を止めて、正確な損得勘定をすることで、苦である罪業から離れることによる本当の利益を受け取りましょう。
*1:深く見れば嘘は盗みと密接に結び付いた罪だと言うことが解ります。