因果に関する、触、中道、縁起、我語取、五取蘊について
仏教には色々な教えがあり、因果、中道、三相、三学、縁起、四聖諦、五力、七覚支、四念処、八正道、など、本当に沢山の単語があります。これらを全部それぞれ丸暗記するのも大変で、時間もかかります。
しかし、仏教とは心身に関する自然法則(ダンマ)の教えであり、まとめれば短いひとつの教えとして見る事が出来ます。究極的に短くすれば、仏教は原因と結果、つまり因果の教えです。
因果とは、この原因があるからこの結果が生じる、この原因がなければこの結果は生じない、と言うことです。「何だそんなの当たり前じゃないか」と思うかもしれませんが、大多数の人は心身で生じている原因と結果の事など、気にも留めていないのではないでしょうか。
しかし、ブッダは因果を深く掘り下げることによって、人は何故苦しむのか、何故「苦」と言う結果が生じるのかを熟慮し、ついにその仕組みを明らかにしました。明らかにすることは「明かす」「明める」と言うことから「あきらめる」「諦める」となります。仏教で使う「諦める」は、確かに望みを捨てる普通の意味での諦めるも含まれますが、どちらかと言うと「明らかにする」「解明する」「はっきりと見る」と言う意味でとらえた方が理解しやすいでしょう。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、ブッダは苦に関する因果を諦めたので「悟った。無上正等菩提智をすべて知った。私の解脱は衰退することはない。この生は最後の生だ。新たに生じる有はもう二度とない。」と宣言しました。これを獅子吼などとも言います。病気の原因がわからなければ対策、特効薬は作れないのと同じ様に、苦に関しても原因がはっきりわからなければ、対策は立てられないのです。しかし、ブッダは苦とは何か、ということと、苦の発生の仕組みを発見しました。これによって、苦が発生しない状態と、その状態の実現方法も発見しました。苦と、苦の原因と、苦の消滅と、苦の消滅のための方法の四つです。これを四聖諦と言います。般若心境で「苦集滅道」とあるのは、この四聖諦のことです。四聖諦を発見したので、ブッダは「悟った、大悟した」と宣言したのです。
ブッダが大悟した当時、他にも苦について真面目に研究している人はいました。その時に唱えられていたいくつかの説があります*1。
1.苦は自分(内側)が作り出すものだ
2.苦は他人(外側、外界)が作り出すものだ
3.苦は自分が作るものでも他人が作るものでもなく生じる
その他にも場合によって
4.苦は自分が作り出したり、他人が作り出したりする
という説もあったようです。これらの話はどれももっともらしく、今の人でもどれが正しいとすぐには結論が出せないと思います。
しかし、ブッダは苦はこれらの説のどれでもない仕組みで発生していることを発見しました。それは、目耳鼻舌身心の六つの根(六根)に、対応する光(映像)音臭味触考*2が合わさり、それに対応する六識である眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識が合うと、「触(しょく、パッサ)」が生じる、と言う点が肝になっています。
もう少し解りやすい例で考えてみましょう。目に何か物が映ったからと言って、人は必ずしもそれを「何かだ」とは認識していません。例えばファッションに興味のない人の前に他の人がいて、その人が着ているのが当節流行の服だったとしても「あ、今流行の服だ」などとは思いません。そもそも認識すらしないでしょう。しかし、ファッションに興味津々の人なら、その服を見た瞬間「その光、つまり映像を自分の知っている何かだ」と認識する働きである眼識が生じるので、目、映像、眼識の三者が合わさり「あ、何々の服だ!」と言う目の「触」が生じます。この時人は物事を「自分に関わって発生した事象だ」と(主観的に)認識するのです。
この流行の服の例では、両者の目に同じ物が映っているのですが、前者(興味のない人)には目の「触」が生じませんが、後者(興味津々の人)には目の「触」が生じています。触が発生していない人には、その事に関する何事も生じないので、心は何も変化せず、苦は生じません。ところが触が発生すると、何かしら心に影響があります。心に影響がある、心が波立つ、と言うのはそれが喜びであれ悲しみであれ何であれ、実は苦です。
この服の例えでは、前者の心には何も起きていませんが、後者の心には「あ!あの服!」というだけでさざ波が立っていますし、あるいは「あ~あの服いいなぁ欲しいなぁ」となるかもしれませんし、あるいは「あの服流行ってるけどイマイチだよね」などと思うかもしれません。いずれにせよ触から生じる感覚(この場合は目の感覚「眼受」)を「自分のもの」と掌握し、何かしら心に変化、つまり苦が生じています。縁起に関する詳しい話は他の記事などで説明していますが、触から掌握する六根の感覚、つまり「受」はそれを「自分のもの」と思えば苦の原因になるのです。
苦の原因である、六根(目耳鼻舌身心)の感覚、「受」が生じるためには、「触」という原因があります。触は、六根および六識という「内側の原因」と、光音臭味触考という「外側の原因」が揃って初めて生じます。つまり、苦の発生の仕組みは上記の1~4のどれでもなかったのです。
苦に関する真実は、苦は内側の原因だけで生じる、あるいは、苦は外側の原因だけで生じる、と言うどちらの偏った考えで示されるものでもなく、内側と外側の両方の原因が全て揃って生じる、と言う「中道」のダンマだったのです。これがブッダの唱える「中道」の直接的なものです。「中道」は他にも望んで快楽にふけることと、望んで苦ばかり求めることのどちらの極端に偏るのでもないもの、など色々な事で示されていますが、「縁起」中でも「触」に関する中道は最も重要な意味を持つと言えるでしょう。
さて、少し縁起と執着についての関係も見てみましょう。縁起の中に渇望があって執着が生じると言う教えがあります。この執着には四種類があります。欲取、見取、戒禁取、我語取です。欲取は愛欲(主に肉体で感じる欲)の満足に関する執着、見取は見解に関する執着、戒禁取は間違った方法に関する執着、我語取は「自分」という概念に関するあらゆる執着です。
どんな物事であろうと、執着がなければ縁起は発生しませんから、苦はありません。執着は「自分」と言う主体が原因で生じます。完全に「他人のもの」と思っている事に執着する人はいません。
ここで誤解のないようにしたいのは、法律上他人の所有物や人、地位などの概念だと認識していても、もしそれを手に入れたいと考えれば、少なからず「自分の関心事」になっているので、広義には「自分のもの」と認識する執着があります。心の底から完全に「他人のもの」「他人事」とみなしていることに執着する人はいません。仮に誰かが死んでいたとしても、完全に見ず知らずの「他人事」なら、人は心を動かさないのです。
逆に少しでも「自分」に関連のあることとみなすと、人は心を動かします。噂話なども、他人事なのですが「自分の関心事」になっているので興味津々になる訳です。ブッダは上記の四取が全ての執着である事を発見したのですが、中でも我語取が全ての執着の大ボスだと発見しました。何故なら「受」を「自分のもの」と思い込むことが苦の原因なのですから、「自分のもの」と言う執着を全て捨てれば苦は消滅するからです。この仕組みを発見したのはブッダだけであり、当然他の人は「我語取」を規定できていませんでした。我語取がなければ普通の人が認識している意味での「自分」がなくなるので、何にも執着はしなくなります。広義での所有の主体となるものがなくなるので、執着も当然残りません。これも原因(自分)の消滅による結果(執着)の消滅です。執着は「自分」の結果ですが、同時に「苦」の原因でもあります。執着と言う原因が消滅したので、苦と言う結果も消滅します。
我語取が無くなれば全ての苦は無くなるので、我語取、自分と言う概念、つまり主観は無明そのものと言ってもほぼ差し支えないでしょう*3。また、五蘊(心身)を自分と思い込む執着である「五取蘊」が無くなれば、「自分」と思い込む対象がなくなるので当然「我語取」も無くなります。五取蘊と我語取は示す対象が「心身」と「自分」なので概念や説明が多少違いますが、どちらも無くなれば苦が終わると言う点では同じようなものと言えます。
縁起で示される苦の原因である執着「取(ウパダーナ)」が消滅すれば、結果である苦も消滅します。普通の人が認識する、あらゆる所有の主体である「自分」と言う概念が無くなれば、苦は無くなると言うのが、苦に関する因果であり、ブッダの大悟したダンマです。このようにブッダの教えの全ては因果で説明されます。同じく重要な概念である「無常」は因果を説明するための大切な要素です。無常で変化するので好ましい状態は維持できず、失われ、結局苦になる、そういう苦であるものは自分、自分自身と執着できない、と言う「無常、苦、無我」の三相も、執着や縁起、因果の説明の一形態なのです。
虫、殺生
普通に生活していれば、蚊を叩いて殺す、あるいはハエを殺虫剤や蝿叩きで殺すと言う事はあると思います。 鶏を飼っている家なら肉にして食べることもあるかもしれません。 この種の日常的な殺生は、生活のため、生きるために必要なものとして自然に受け入れられています。
そもそもこの世界は生存するためには他の生命を殺して食べる事が要求されます。また、意識せずとも人間の体内では免疫機能が体内に入った微生物を殺しています。つまりこの世で肉体を生存させ、維持するためには完璧に殺生から離れる事は出来ません。
しかし、だからと言って普段の生活で無駄な殺生が全くないかと言うと、そんな事はないでしょう。蚊や蝿を殺したり、ゴキブリを殺すのは、生存するためにどうしても避けられない殺生と言えるでしょうか。
特に蚊に刺されそうだから叩いて殺す、と言うのは「刺されたら痒いから」とか「羽音が不快だから」と言う理由が主で、他には「病気の可能性」とか「血を吸われるのが不快」と言う理由です。
これらはいずれも自分の「快適」を基準にした主観的な考えから生じるもので、少し不快な痒さや音に耐えれば生死に関わる程の問題ではありません*1。
加害の気持ちを持つことは、「自分の都合」での視点を強化しますので、「自分」と言う執着である我語取が強くなる害があります。これは苦を増やす方向ですから、滅苦を目指すべき人間にとっては大きな害です。不要な殺生を避ける事は苦を減らすために必要不可欠な事です。
「痒いのは苦しいのに、痒くなるのを我慢しろと言うのは矛盾しているじゃないか」と言う反論は当然考えられますが、これは損得をトータルで見る事が出来ないので生じる誤解です。
例えば自分の最愛の者が溺れていて手をさしのべたときに引っ掻かれて血が少し出たからと言って怒り狂ったり、大騒ぎする人がいるでしょうか。血を流した損より最愛の人の命を救った利益の方がはるかに大きいと考えるので、そんな程度の出血や怪我は気にならないのではないでしょうか。
蚊に対しても少し位の血をあげて、その食事を与えたと考えられるなら、それは功徳であり、その利益の大きさを見れば痒さや血を大きな損と考えないのではないでしょうか。しかし普通の人はこうは考えられません。
「最愛の人」と「そこらの十把一絡げの害虫である蚊*2」と言う差別があるからです。この差別が善悪、美醜、大小、長短と言った陰陽を生じるので、比較が生じ、苦となります。
結局「苦とは何か」、「何が苦なのか」と言う真実がはっきりと見えないうちは、苦から逃れることは出来ません。
病気などもそうですが、正体がはっきりしないものに根拠のある対応は出来ません。当然、苦が何かを明らかに認識出来ない状態で苦から逃れることは出来ません。
殺生、加害は縁起と同様に深い問題なので、皆さんも熟慮されてみることをお勧めします。
絶対的、相対的価値観
寂しさ、孤独感とその克服
そもそも自分の心身すら思い通りにならないのに、家族でもそうでない人でも、完璧に自分に都合よく振舞ってくれる人が身近に居て欲しい、というのが無理な要求なのです。
戒律、パーティモッカと経典の内容
ブッダはダンマ(ブッダの示す真実、教え)を説き始めて間もない頃、サンガ(比丘、出家の集団)の規模が小さく皆に自分の目が届いて直接教育できるうちは、比丘の理解も深く行いも正しいのでパーティモッカ(戒律、決まり)は定めないが、サンガの規模が大きくなり、素行に問題のある比丘が出始めたら戒律を定めるとあります。
ダンマを十分理解している人にとっては、やって良いことと悪いことの区別は明らかな事なので、一々「あれはいけない、これはいけない」などと言われるまでもないのです。
これは視点を変えれば、戒律は増えれば増えるだけ全体としての比丘の質が落ちた、と見ることも出来ます。
今は227もの戒律が伝わっていますが、内容を見てみると仏像に関する戒律などもあるので、ブッダの存命時には戒律はここまで多くはなかった筈です*1。
また、この227戒には「自分で使った寝具は自分で片付ける」とか「ご飯でおかずを隠しておかずをせびらない」など、出家なのに一々そこまで言われないと解らないのかと思う様な水準の低い内容も混ざっていて、ありがたい教えと言うよりむしろ呆れる類いの話も少なくありません。
バーラージカ(僧籍追放)の決まりや五戒、十善などはまだ参考にもなりますし、さもありなんと言う内容ですが、227はいくらなんでも増えすぎであり、これらを全部暗記する事に時間を費やすよりも、ダンマの本質を学ぶ方がはるかに重要だと言えるでしょう。
また当然、この様に戒律が増えてしまったサンガの状況では、ダンマの理解も怪しいものになり、教えや経典に様々な異物が混入した可能性を考慮すべきでしょう。
この事から経典は古いものほど信頼できる可能性が高いと言えます。後付けのものは後世の弟子が付け加えたものであり*2、ブッダが直接述べた内容ではない可能性が高いのです。
もちろん初期の経典だからと言ってもうのみには出来ませんが、後世の物よりはブッダの教えに近い可能性は高いのです*3。肉体のあるブッダの居ない現代に生きる私達は、なるべく初期の内容である縁起、四聖諦の話から矛盾の無い体系を抜き出して学ぶ事が、最も正しい教えに近づける可能性が高いと言えるでしょう。
戦争、争い、恨みについて
今年で原爆投下から70年が経つ事になります。また、今日は長崎で原爆が投下された日でもあります。兵器は人を殺傷する目的の道具であり、全てが非人道的なものですが、原爆はその最たるものであり、決して使用してはいけないものです。どの様に取り繕った所で、戦争、中でも核兵器に関われば必ず不幸になります。
戦争や紛争は人の集団同士が殺し合う大変愚かなものですが、全ての争いの原因は突き詰めれば個人ごとの利己的な欲望に起因します。人より少しでも多く喜びの受(感覚)を得たいと言う身勝手な考えが、あらゆる不和の原因なのです。
仏教では戦う相手は自分の悪い心だけであって、他の人と争う様な事は行ってはいけないと教えられています。
ブッダは弟子同士がダンマ(仏法)について口論している所に来て「争ってはいけない、恨み事は恨まない事によってのみ解決する、これは古い教えで、永遠に使えるダンマである」と教えたとあります。
ブッダが滅苦のダンマを見出だす以前から、争いは恨まない事によってのみ解決すると知られていたのです。
人間は自然のままの心では、どうしても害をなされるとその相手に害意を抱いてしまう傾向があります。しかしそこで踏ん張って、害意と言う毒を心の中に抱かない事で平和が実現できるのです。
「やられたら、やり返す」と言う教えは、低い道徳の水準では便利に使えるので広く普及していますが、仇討ちが新しい憎しみを生み、更なる仇討ちを生じさせてしまいます。つまりこれは悪い循環を生む教えで、ブッダの勧める苦を減らすための真実ではありません。
実践は簡単な事ではないのですが、「怒らない」「恨まない」事に最上の利益があると言う真実を明らかに見て、その利益を得るのが最上の道です。ブッダのダンマは、実践は到底容易とは言えませんが、人間にとって最高の利益をもたらすものです。
核兵器と原子力
あまり世俗の話をどうこう述べても因果、縁生の循環の話にしかならないのですが、原子力の問題はその循環を見るための好例と言うことはできます。
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されてから今年で70年が経ちます。被爆された方もその大半が亡くなり、年々生の体験談を聞ける機会は減るでしょう。
ひとつ確実に言えることは、核兵器は何の利益も産み出さないと言うことです。もちろん兵器は全て捨てるべきものですが、核兵器などはその最たるもので、何の存在価値もありません。
しかし、人間はまだ兵器を捨てられるほどには十分に賢くなく、無明にとらわれていて真実が見えていません。無知なので喜びの受を多く得るために他者の生命や財産を暴力で脅かすのです。これを国家規模で行うのが戦争です。
また、喜びの受を餌にして処理できない毒を生成する機械を使って発電するのが原子力発電です。例えばあなたは便利だからと言って処理できない毒を発生する洗濯機、掃除機、冷蔵庫、電子レンジを使いますか?
一定の智慧があれば毒よりは少しの不便を選択します。しかし、無明に覆われているので目先の利益に飛び付いて毒を選択するのです。
電気が足りないなら夜寝れば良いのではないでしょうか。暑いなら団扇を使う、寒いなら服を着る、色々と工夫はできる筈です。電気は高々ここ百年前後で普及したもので、何も電気がなければ人類が死滅する訳ではありません。
しかし、大規模な放射性物質汚染が世界中に起これば、人類だけでなく地上の生物が死滅する可能性があります。そして実際現在地上に用意されている核物質は、容易に地上の生物を殲滅できるのです。放射性物質を無毒化できる技術があるならまだしも、毒性を浄化出来ない現段階で、便利だからと言って原子力を安易に利用していれば、因果の法則を見れば決して良い結果が得られない事は容易に見えます。
福島の事故はその好例です。人が寿命を全う出来ずに死ぬ結果が生じるのは、その様な原因があるからです。善因善果、悪因悪果は法則なので、これから逃れる事は出来ません。