ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

縁起と心

ブッダは縁起の仕組みが見えなければ「解脱した」「アラハンサンマーサンブッダ」になったと宣言しなかったと言う経があります。 (中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項、相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項等)

縁起は苦の発生過程を完璧に分析したもので、特に触の仕組みは重要です。六処である目鼻耳舌体心に外界の形臭音味触考が触れるとそれに依存した識が生じて「触」が生じます。このときに「内部の原因(六処と識)」と「外部の原因」があることを発見したのがブッダの画期的な成果だと言えるでしょう。

例えば目と形に依存して生じた眼識が合って目の「触」が生じます(他の五つも同様です)。

触があるとそれが原因で「受」(感覚)が生じ、それに応じた気持ちの反応、つまり渇愛が生じます。

例えば目に桜の花が映ったとき、人がそれを「桜だ」と認識する(触の発生)と「美しい、好ましい」と言う受(感覚)が生じます。

逆に目にゴキブリが映ったとき、人がそれを「ゴキブリだ」と認識する(触の発生)と「うわ、嫌だ」と言う受が生じます。*1

触が生じるとそれが原因で受が生じ、受の種類に応じて好ましい、嫌いだ、どちらでもない、と言う感情が生じます。この感情が縁起で言うところの「渇愛」です。

感情が発生すると人は否応なしにその感情を「自分のもの」と認識します。これが縁起で言われるところの執着です。

執着が発生すると「自分は好ましいもの(桜)を見た」とか、「自分は嫌なもの(ゴキブリ)を見た」と思います。このときに「自分はどう(良く/悪く)なった」 と言う主観が発生しますので、これが縁起で言うところの界(有)になります。

界が生じればそれが原因で否応なしに「好ましい/嫌なものを見た自分」が生まれます。

この自分(と思っている実体のない状態、不変でない状態)は必ず無常で変化しますので、変化したときに、老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、全ての悩みと言った苦の山が発生します。

以上の過程がいわゆる「縁起」の教えです。これを実際の自分に当てはめて見てみるのが「ヴィパッサナー(詳しく観察する)」と言う事です。

他の説も色々あるかと思いますが、上記の過程の話が間違っているとも考えにくいのではないでしょうか。皆さんもこの様に縁起について自分で考えて見てはいかがでしょう。

*1:ここで一つ大切な点は、目に何か映っても、「認識」しなければ心に何も生じないところです。例えばカバンに全く興味のない人がお洒落な人のカバンを見ても、気付きもしないと言うことは良くあります。このとき「触」は生じていません。