ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

縁起と無明

縁起が見えなければ私はサンマーサンブッダだと宣言しなかった、と言われるほど大切な縁起の教えですが、縁起の段階はいくつかの種類で語られています。一般的なのは十二縁起と言われる十一段で十二の項目からなるものです。この縁起では最初に無明(無知、愚痴)があります。すなわち、

無明があって行があり、

行があって識があり、

識があって名形があり、

名形があって六処があり、

六処があって触があり、、、、老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、全ての悩みが揃って生じます*1

この縁起の前半の解釈は簡単ではないのですが、苦が生じる原因となる触は全て愚かな触です。その前提で無明から順に追ってみます。

無明(無知、愚かさ)があるので、愚かな行(形成力、生み出す力)が生じます。愚かな行によって生じる識(自然に訓練しない六根で感じること)は当然愚かです。この識が生じたときに名形(心と身体)が生じます。

ここは議論のあるところで、解釈は諸説ありますが、ここでは識があるから名形に意味が生じる、と考えてみましょう。というのも、識がないと名形(六根)だけがあって何も意味のある反応が生じないからです*2

*後日補足解説

こちらのプッタタート比丘の選んだパーリ語経典のブッダバーシタ(ブッダの教え)があります。これらの経によると、識と名形の発生の順番は互いに入れ違っているので、やはり名形(心身)と識は相互に依存して生じていると考えるのが一番無理が無いようです。

問答の形の縁起の解説
マハーニダーナスッタ 長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻65頁57項他
アーナンダ。そのように言ってはいけません。アーナンダ。そう言ってはいけません。この縁起は深遠であり、深遠に見える状態もあります。アーナンダ。
知らないから、次第を知らないから、ダンマ、つまりこの縁起を洞察しないから、生き物群(の心)は、もつれた糸の塊ように、結び目がいっぱいで絡み合った糸のように、ムンチャ草やパッバチャ草のように絡み合っています。
中略
アーナンダ。「縁であるもので生じる名形はありますか」と質問されたら、「あります」と答えるべきです。続けて「名形は何が縁で生じますか」と質問されたら、「名形は識が縁で生じます」と答えるべきです。
アーナンダ。「縁であるもので生じる識はありますか」と質問されたら、「あります」と答えるべきです。続けて「識は何が縁で生じますか」と質問されたら、「識は名形が縁で生じます」と答えるべきです。
アーナンダ。このような理由で、識は名形が縁で生じ、名形は識が縁で生じ、触は名形が縁で生じ、受は触が縁で生じ、欲は受が縁で生じ、取は欲が縁で生じ、有は取が縁で生じ、生は有が縁で生じ、老死、悲しみ、嘆き、すべての悩みは、生が縁で一斉に生じます。この苦の山のすべては、このような様相で生じます。

http://space.geocities.jp/tammashart/engi/1-1.html

五蘊の規定の根拠
中部ウパリバンナーサ 14巻102頁124項

「スガタ様。何が形蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊と規定する原因であり縁ですか」。 比丘。四大種が形蘊を規定する原因であり縁です。 比丘。触(内処入と外処入と識の会合)が受蘊を規定する原因であり縁です。 比丘。触が想蘊を規定する原因であり縁です。 比丘。触が行蘊を規定する原因であり縁です。 比丘。名身が識蘊を規定する原因であり縁です。

http://space.geocities.jp/tammashart/siseitai/1-2.html

また、例えば目の触は、目(六内処入)に形(六外処入)が触れた事に依存して眼識(六識)が生じて起きる、とあります。識(vijnAna)と名形/名身(nAma rUpa)の発生順序は互いに依存していて、どちらが必ず先とは言えません。ただ、この十二縁起の順序が間違いとは言えない事と、当然この順番で滅苦が出来ないと言う事ではないでしょう。大切なのはブッダの言う様に、苦は内側と外側の原因が全て揃って生じると言う点です。これさえ抑えれば滅苦の実践は可能です。

*後日補足解説ここまで

科学的に考えると、五感の元である目耳鼻舌体があって初めて心や識が生じると考えがちですが、身体だけあっても心がなければ意味のある反応、すなわち触は生じません。触のときに生じる識は六つの各根に依存して生じる眼識、耳識、鼻識、舌識、体識、意識です。縁起で行の次に語られる三番目の項目の識はこれらの触のときに各根に依存して生じる識ではなくて、全ての愚かな識のベースとなるもの、全ての識の大元、発生源と解釈すると無理がありません*3

実際、経には目と形に依存して眼識が生じ、と語られているのでこの十二縁起で語られる識は、触のときに六処に依存して生じる各識とは別物と見なければ少々無理があります。

名形に意味が生じると六処が生じるのは自然な流れです。

六処が生じると触が生じます。この触は無明の流れの愚かな触なので、それによって生じる受も愚かな受になります。愚かな受は必ず欲を生じますので、ここから取(執着)~界~生~老死も含めた苦の山の発生まで止まることはありません。

無明とは自然の流れで生きていれば自らを守るために必ず生じる身勝手さ、自分と言う概念(我語取)とも言えます。無明から生じる、あるいは無明そのものである「自分」、「自分のもの」という概念が全ての苦の原因です。つまり縁起はこれを語った深淵な教えでもあります。

ブッダはこのダンマ(教え)は唯一我語取を規定したところが他の宗派と異なる完璧な滅苦の実践につながると説いています。良く見れば縁起も無明から生じる我語取を規定しているのです*4

なので縁起が見えなければ滅苦は成就しない、ということと、我語取を規定しなければ滅苦は成就しない、という二つの話に全く矛盾はないのです。

このあたりの解釈は意外と説明されていない気がしますので、一度ご自身で良く考えてみてはいかがでしょうか。

 

 

*1:触以降は前回を参照してください

*2:触は目耳鼻舌体心(内六処)に形音臭味触考(外六処)が触れてそれに応じた眼識、耳識、鼻識、舌識、体識、意識(六識)が生じて成り立つ

*3:もしここで名形を五蘊(形受想行識)で考えると議論が非常に混乱するので、十二縁起で語られる名形は六根のベースと見ます。

*4:それが明らかに語られている経を私は知りませんが、もしそのような経があったら教えて頂けますと幸いです。