ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

心理学と仏教

ツイッターでのフォロワーさんとの会話から今回の話を書きます。私は現行の心理学を専門に学んではいませんが、フロイトは全ての欲求が性欲が原因と言う説を唱えていたと記憶しています。これは良い所をついています。

ブッダは心で掌握する苦を消滅させるために、欲のメカニズムを完璧に解明しています。つまり、無明が本来ある清浄な心を曇らせているという仕組みを明らかにしています。無明は自然界とも言えます。どんな動物でも自然界から個の肉体を維持することをプログラムされています。なので主観的な判断が心に巣食い、全ての現象を客観的に観察することを妨げます。全てを主観的に判断するので、何でも「自分の都合」に照らし合わせて判断、処理します。当然「生き残ること」が生物にとって優先順位が第一の行動原理になります*1。次に優先順位の高い行動が遺伝子の保存です。遺伝子の保存に繋がる行動はすなわち雌雄同体の生物ならば分裂、雌雄異体の生物ならば性的行為です。「個」、「自分」という執着をブッダは「我語取」と規定し、この規定によって他の宗教とは異なる完璧な滅苦が実現できると宣言しています。

このように個体を生き残らせる目的で自然界(あるいは無明)は全ての生物に「自分」という執着を持たせています。人間は「想」(サンニャー:自覚、記憶など)がある雌雄異体の動物なので、性的行為が生き残ることの次に優先順位の高い行動原理になります。男性の場合は、沢山の異性と交わることが個体の遺伝子の保存に有利なので単純にその欲求が性行為、つまりセックスに向かいます。セックスさえできれば良いと言う気持ちが強くなれば、平然と複数の女性と同時に関係を持ったりもします。酷ければ強姦までします。明らかな身勝手ですが、欲望に忠実な行動です。

女性の場合は、そう単純には行きません。長期間妊娠して出産すると言う生物的な理由から、設けることの可能な子供の数に制限があるからです。つまり女性には沢山の相手とセックスすることは、個体の遺伝子の保存に必ずしも有利には働かない、それどころか不利益が生じる可能性が高いのです。女性にとって能力が低い個体や、障害を抱えた個体とセックスすることは、自分の遺伝子を引き継いだ子供の生存に有利に働きませんので、セックスする相手に優秀な個体を選ぶことはとても重要です。ただ、優秀な個体をパートナーに望むことについては男女ともに同じなので、男女ともセックスする相手の外見は気にします。外見は奇形などの障害を避けるために最も簡単に個体の優劣を判断できる基準だからです。女性の場合は男性よりも子供の品質の優劣の問題が、非常に重要性が高くなると言う事です。


優秀な(つまり外見の良い)個体の競争率が高くなるのは男女ともに同じ事ですが、既に述べた様に女性にとって性交する相手の選別は切実な問題なので、パートナーの選定基準は当然男性よりも厳しくなります。外見だけでなく、財産、性格、社会的地位、その他自分と子供の生存にとってあらゆる都合の良いもの*2が性的行為のパートナーの選定基準になります。

しかし条件が良い個体の数は当然多くはないので、女性の場合同性間のパートナー選びの競争は自然と激しいものになります。このような優秀なパートナー選びの競争はすなわち、同性間で自分のランキングを高くする競争に繋がります*3。当然、女性は自分の外見を気にして着飾り、見栄を張り、パートナーや親戚、子供など身近な人間のステータスなども競争の道具にします*4。しかし人間の女性同士の関係は単なる競争だけではありません。その理由は、子供を育てるためにグループ、共同体に所属することが有利になるという面があるからです。したがって女性同士は競争しながらも一つの共同体に所属するという、原理が相反する行動を取ることが多くなります*5。自然と女性同士の人間関係は複雑になり、入り組んだ利害関係が生じます。中学高校などでも女性同士は数人のグループで固まり、利害関係が入り組んでいますが、だからと言ってあまり一人で行動しようとはしません。不利益が大きいからです。

また、女性は生理が終わり生物的に意味のある性行為を離れる年齢になっても、性欲から生じる同性間の競争の欲は通常そのまま心に残滓としてこびりついていますので、何もしなければ死ぬまで消えることはありません。年配の方でも服装や自分の外見への執着が強く残っている女性は多いです。男性は意味のある性行為がほぼ死ぬまで可能なので(もちろん個人差はあります。)、やはり死ぬまでセックスそのものに惹かれます。このようであれば結局男女とも死ぬまで性欲を抱えたままです。ブッダの観点から見れば、欲を抱えたまま死ぬことは輪廻からの解脱に繋がりませんので、このような死を非業の死と見ます。

性欲は直接その方向に発展するか、あるいは変化、分化して、様々なフェティシズムを生じます。また、性欲が良い形を見たいとか、心地よい音を聴きたいとか、良い匂いを嗅ぎたいとか、美味しいものを食べたいとか、心地よい接触、特にセックスをしたいなどの五欲の原因になり、良い考えに浸っていたいと思う妄想の原因になります。

このようなあらゆる喜びの受(喜びの感覚)への欲望を「渇望」と言います。男女とも性欲も含めた喜びの受を味わうためにあらゆる手段で頑張ります。たとえば勉強して良い大学に入り、良い会社に就職する、外見を整えるなどの努力をします。このような考えをいくら強くしても、他者の利益、思いやりという概念は生じてきません。つまり喜びの受を味わいたい、というのは身勝手な欲望に分類されます。あらゆる身勝手な欲望は生存欲と性欲が起源なので、フロイトの言説はあながち間違いではないどころか、かなり事実を言い表した正確なものと言えます。また、身勝手が強まれば、他者への気遣いはどんどん減り、心は麻痺して加害行為も平気になってきます。戦争も含めたあらゆる争いごと、人間同士の問題はこう言う心理状態が原因で生じます。欲の達成が邪魔されると怒りになりますので、欲は怒りの原因にもなります。

また、普通は自分の心の仕組みを全て自覚的に把握できないので、フロイトはそういう自覚できない部分も含めて自我、エス、超自我と言うような考えで説明しようと試みたのでしょう。上記のような欲や怒りのメカニズムは中々客観的に把握できません。これをブッダの観点では無知、愚痴と呼びます。つまり無明です。

ブッダは苦に関する全てを見ていますので、全ての欲求が無常で変化するものを、自分の都合よく永遠に維持しようとする考えが無明だと明らかにしています。このような無明は当然客観的事実である無常の変化との齟齬を生じます。つまり生物は永遠、不変を欲するのに事実は変化し、不変でないので矛盾を引き起こし、苦になるとブッダは教えています。

無意識による無明から生じる考えから、内部の原因があり、外部の原因も合わさって触が生じ、受を自分のものと思い込んで執着し、苦になります。この縁起の教えが、フロイトの試みた自覚部分と無自覚部分のところまで含めて完璧に説明しています。

無明があるので欲があり、怒ります。無明つまり無知を捨てて真実をありのままに見れば、欲も怒りも消えるのです。

*1:場合によっては他者の生存を優先するとか、死ぬべき時に死ぬこと、などが選択肢に入らなくなります。

*2:事実は必ずしもそうではないのですが

*3:男性の場合はセックスさえできれば多少は妥協できるので、一般的にセックスパートナーを争奪するための同性間の争いは女性のような様相にはなりません、ただし、他の競争はありますし、陰湿な嫌がらせなども当然発生します。この仕組みも無明で説明できます。

*4:これは一般論です。当然このようなことを重視する男性もいます。

*5:女性同士が表面上仲良くしながら、いなくなると途端にその人の悪口を言い始めるという様な話を良く見聞きしますが、上記の理由から見れば当然のことと言えます。