ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

因果

ブッダに最初に教えを受けたアッサジと言う比丘が托鉢している様子を見て、ウパディッサ(後のシャーリプトラ、般若心経の舎利子)は「あなたの師はどういう方ですか?どういう教えをされるのですか?」と聞くと、アッサジ比丘は「私もまだ入門して日が浅く、詳しくは教えられないが、私の師は全てのものの、発生の原因と、原因が消滅したことについて仰います。」と答えたとあります。

因果という言葉は誰でも聞いたことがあると思いますが、これは「原因と結果」を短縮した言い方です。因果応報と言う言葉も人は原因に応じた結果を受け取る、という意味です。

全ての因果を知ることは人間には難しいです。例えば、ある人(以降Aさん)が駅で定期入れを落としたとします。後ろの人(以降Bさん)に定期を拾ってもらえるか、あるいは無視されます。両者の分かれ道は何でしょうか。もっともわかり易いケースは、拾ってもらえるのはAさんがBさんに悪意を持たれていない場合です。無視されるのはAさんがBさんに悪意を持たれている場合です。

例えば電車に乗っているときに、Aさんが年配の人に席を譲っていて、Bさんがそれを見ていたりした場合は、拾ってもらえる可能性が高いです。Aさんがマナー違反をしていてBさんや他の人に要らぬ迷惑をかけて嫌われていれば、無視される可能性が高くなります。

実際の因果はこのように簡単なものばかりではなく、本当に巡り巡って何十年何百年もしてから結果が出るような例もあります。例えばある人が植えた木が、その人が死んで五百年後に有名な観光スポットになってその土地に恩恵をもたらす、などという話もあり得ますし*1、その場合関わった人が直接結果を受け取る訳ではありません。

また、定期の話でも、返してもらった結果だろうと無視された結果だろうと、また新しい出来事の原因になっていきます。この原因と結果の連鎖は留まる事がありません。まさに輪になった鎖、回転するタイヤの様です。このように原因と結果が次々生じて発生と消滅を繰り返すものを「有為」と言います。人間の肉体や心も当然有為です。無為についてはまた改めて記事にします。

全ての出来事、結果の因縁を見ること、業、カルマの話を完璧に知ることは生きている人間には難しいです。しかし、因果を完璧に知らなくても、苦を消滅させることは可能です。

なぜなら定期入れの例えを見ると、善い行為は善い結果をもたらしますし、悪い行為は悪い結果をもたらします。「そんなこと言っても善い事をしても無視される事はあるだろう」と仰らないで欲しいと思います。それはその通りですがそう言う話ではありません。

これは結果の何を良し悪しと見るかの問題になります。確かに善い行いをしても定期入れは返ってこないことはあり得ます。しかし、善い行いをした人は既にその時点で心に善い結果を受けているのです。

逆に悪い行いをした人はその時点で心に悪い結果を受けています。例えば電車の中で大音量でヘッドフォンステレオを聞いている人の心が静かな道理がありません。静かでない心は苦です。自分を苦しめている身勝手さは、自分の心への悪い結果にとどまらず、当然他人にも迷惑、悪い結果を与える可能性があります。

つまり心に注目してみれば、因果は明らかにその時点で見えるものです。この心の因果、つまり縁起が苦を減らす、あるいは完璧に無くすために知るべき教えと言えます。

 

*1:イタリアのヴェスヴィオ火山の遺跡なども一例です。亡くなった人は大変でしたが、2000年以上前の噴火の影響を何かしら受けている人が現代にいます。