ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

貪瞋痴と習慣について2

自動車の運転などでもそうですが、慣れないうちは一つ一つの動作をかなり意識的に行う必要があります。また、判断も動作も練度は低く(要するに下手で)、時間もかかります。

例えば狩猟生活や農業などの生産活動を考えれば、必要な動作や判断がいつまでも下手だと生存に不利なのは明らかです。

この不利を回避するために、人間は何度も行う動作や判断に慣れます*1。慣れてくるとそれらの判断や動作を一々意識的に行う必要がなく、無意識で瞬時に行う事が可能になってきます。

こうなれば狩りで獲物を仕留める確率も上がり、農作業などの効率も上がり、家事育児もそつなくこなせる様になります。この様に物事に慣れて無意識的に判断、行動出来るようになる能力は、個体を生存させるために必要なのです。

さて、ではダンマの観点から見た場合この慣れる能力は良いと言えるでしょうか?

例えば歩いていて進路を誰かに邪魔されたら瞬時に怒りが生じますし、魅力的な異性が居たら瞬時に目をひかれます。目の前に食べ物が置かれていたら何も気にせず食べてしまうこともあります*2

この様に慣れる能力は身勝手な欲に対する条件反射的行動にも当然反映されますので、慣れる事と身勝手さを減らす事は必ずしも相性の良いものではないと言う事が見えてきます。

特に人間は生存してきた期間が長ければ長いほど、身に付いてきた習慣が多くなりますので、無意識的に判断、行動してしまう事は増えます。

ですから仏教の示す様に貪欲、瞋恚(怒り)を減らすためには、無意識に行っている判断と行動を自覚する必要があると言う事です。

これらから、人がついつい無意識に行っている判断と行動に常に理性を働かせて注意して(サティを働かせ)、その判断と行動を一旦止めて(サマタ)、その時の心の状況、考え方、身体の反応を観る(ヴィパッサナー)事が、貪欲と瞋恚を減らすために必要だと言う事が見えて来るのではないでしょうか。

そしてその様な貪欲と瞋恚が、実は生存のために無意識で獲得してきた習慣から生じていたと見えれば、貪瞋痴の痴(無知)も減って来るのです。この様にして、全ての判断と行動を自覚的に観察し、言動を改めることで三毒と呼ばれる煩悩である貪瞋痴を減らす事が可能になります。

この様に考えると、サティやサマタ、ヴィパッサナーと言うのは何も特別な訓練を要するものではなく、誰もがついつい無意識に行ってしまっている習慣的判断、行動を意識的、自覚的に分析する事だと見ることが出来ます。

この様な事はまさに日常生活の全ての状況において可能な事であり、また励むべき事でもあります。どこかのお寺に行って何時間も座る事だけが仏道修行なのではありません。まさに普段の生活全てが仏道修行なのです。

また、常にサティが働いていて、安定して落ち着いた心でいることを禅定(サマーディ)と言いますが、深さの差はあれ心は常に安定していなければなりません。これを只管打坐(ひたすら座禅し続ける)と見る事が出来ます。「出たり入ったりする禅定は良い禅定とは言えない。」と言う六師慧能の言葉があるように、何か特別な条件が満たされたときだけ心が落ち着ける、と言うのでは心の平安は覚束ないでしょう。

ここまでで「私の教わった話と違う。」と仰る方もいらっしゃるかもしれません。それは結構です。そしてその場合、この話とその教わった話のどちらがどう言う根拠に基づいて話されているのか、あるいは実は同じ教えなのか、良く考えて見ることもまたとても良い修行になると思います。

カーラーマ経にあるように、人は得てして「誰々が言っていたから正しい、この話は誰々が言っているから違う。」などと判断してしまいます。これも「習慣」によって身に付いた「癖」のひとつです。ブッダダンマを学ぶ人は常に自ら根拠を検証して判断しなければなりません。

自分で検討する、と言うのはとても大切な事なのです。

*1:善人に囲まれて生きれば善行に慣れ、悪人に囲まれて生きれば悪行に慣れるのも同じ事です。

*2:小さい子供でなくてもこう言う事をする人は、実際にいます。