心の老いと死、輪廻
肉体が必ず老いて死ぬ事は誰もが認める事実ですが、心も肉体と同じ様に老いと死があります。
例えば子供の頃に大好きだった泥遊びやごっこ遊び、がらくた集め等を、大人になってからその時と同じ気持ちで楽しむことは普通出来ません。
あることに夢中になっていて、それに何よりの価値を見ていても、心はいずれ変化し、その時の気持ちは薄れ、遂には無くなります。
恋人が変わることも同じことです。付き合っていた当時大好きだったAさんのことはどこかに行ってしまい、今はBさんしかいない、と言う様な話になる訳です。
一日の中でも、お腹が空いたら食べ物を欲し、喉が渇いたら飲み物を欲し、眠くなったら寝床に行くと言う様に心はいつも変化しています。生まれてから死ぬまでずっと同じ様に続く心の状態はありません。心も発生と消滅の対がある有為のもので、無常の支配下にあるからです。
つまり心にも肉体同様に老いと死があります。むしろ肉体よりもかなり早い周期で生老病死を迎えます。肉体が生まれてから死ぬまでに、つまり普通の人の定義する一生の間に、心が何回新しく生まれては死んでいるのかを考えれば、回数を数えることが出来ないほど多い事がわかるでしょう。
これが心の輪廻です。普通の人が認識している輪廻の概念は、肉体が死んでから新しい肉体にその魂が入る事だと思いますが、人は肉体が生きている間に何百何千、ともすれば何万と言う回数の心の輪廻を経ています。
縁起*1で説かれる老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩みと言った苦の山は、渇望が強いほど強烈なものになります。これもまた輪廻の害なのです。
輪廻の害が正しく見えれば見えるほど、輪廻の原因となる渇望を抱くことの害が見えてきます。この様になれば、迂闊な心の持ち方をして何かを強く欲したり、喜怒哀楽の感情に心を支配され続けたりと言った目一杯苦を味わう様な事は避けるべきだと見えてきます。
これはまさしく、これまで繰り返し説明してきた事と同じ理屈です。無常のものに執着しても、維持できませんからその執着が苦の原因になると言う訳です。
ブッダのダンマは肉体が生きている間に利益を得られるものです。ぼやっとして(つまり油断して)自然のなりゆきの赴くままに心を放置せず、サティで常に正しく制御すれば、何かを「自分のもの」と掌握して苦になることはないのです。これはブッダダンマで最も大切な教えのひとつです。
生きている間に生じる心の輪廻は苦の山を生じさせます。当然これは無視できない害ですから、今ある渇望を減らすこと(無くすこと)新しい渇望を生じさせないことが、苦を減らすためにとても大切だと言えます。
*1:仏教の十二縁起で、一般の意味の縁起の良い、悪いとは違います。