戒律、パーティモッカと経典の内容
ブッダはダンマ(ブッダの示す真実、教え)を説き始めて間もない頃、サンガ(比丘、出家の集団)の規模が小さく皆に自分の目が届いて直接教育できるうちは、比丘の理解も深く行いも正しいのでパーティモッカ(戒律、決まり)は定めないが、サンガの規模が大きくなり、素行に問題のある比丘が出始めたら戒律を定めるとあります。
ダンマを十分理解している人にとっては、やって良いことと悪いことの区別は明らかな事なので、一々「あれはいけない、これはいけない」などと言われるまでもないのです。
これは視点を変えれば、戒律は増えれば増えるだけ全体としての比丘の質が落ちた、と見ることも出来ます。
今は227もの戒律が伝わっていますが、内容を見てみると仏像に関する戒律などもあるので、ブッダの存命時には戒律はここまで多くはなかった筈です*1。
また、この227戒には「自分で使った寝具は自分で片付ける」とか「ご飯でおかずを隠しておかずをせびらない」など、出家なのに一々そこまで言われないと解らないのかと思う様な水準の低い内容も混ざっていて、ありがたい教えと言うよりむしろ呆れる類いの話も少なくありません。
バーラージカ(僧籍追放)の決まりや五戒、十善などはまだ参考にもなりますし、さもありなんと言う内容ですが、227はいくらなんでも増えすぎであり、これらを全部暗記する事に時間を費やすよりも、ダンマの本質を学ぶ方がはるかに重要だと言えるでしょう。
また当然、この様に戒律が増えてしまったサンガの状況では、ダンマの理解も怪しいものになり、教えや経典に様々な異物が混入した可能性を考慮すべきでしょう。
この事から経典は古いものほど信頼できる可能性が高いと言えます。後付けのものは後世の弟子が付け加えたものであり*2、ブッダが直接述べた内容ではない可能性が高いのです。
もちろん初期の経典だからと言ってもうのみには出来ませんが、後世の物よりはブッダの教えに近い可能性は高いのです*3。肉体のあるブッダの居ない現代に生きる私達は、なるべく初期の内容である縁起、四聖諦の話から矛盾の無い体系を抜き出して学ぶ事が、最も正しい教えに近づける可能性が高いと言えるでしょう。