ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

因果に関する、触、中道、縁起、我語取、五取蘊について

 仏教には色々な教えがあり、因果、中道、三相、三学、縁起、四聖諦、五力、七覚支、四念処、八正道、など、本当に沢山の単語があります。これらを全部それぞれ丸暗記するのも大変で、時間もかかります。

 しかし、仏教とは心身に関する自然法則(ダンマ)の教えであり、まとめれば短いひとつの教えとして見る事が出来ます。究極的に短くすれば、仏教は原因と結果、つまり因果の教えです。

 因果とは、この原因があるからこの結果が生じる、この原因がなければこの結果は生じない、と言うことです。「何だそんなの当たり前じゃないか」と思うかもしれませんが、大多数の人は心身で生じている原因と結果の事など、気にも留めていないのではないでしょうか。

 しかし、ブッダは因果を深く掘り下げることによって、人は何故苦しむのか、何故「苦」と言う結果が生じるのかを熟慮し、ついにその仕組みを明らかにしました。明らかにすることは「明かす」「明める」と言うことから「あきらめる」「諦める」となります。仏教で使う「諦める」は、確かに望みを捨てる普通の意味での諦めるも含まれますが、どちらかと言うと「明らかにする」「解明する」「はっきりと見る」と言う意味でとらえた方が理解しやすいでしょう。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、ブッダは苦に関する因果を諦めたので「悟った。無上正等菩提智をすべて知った。私の解脱は衰退することはない。この生は最後の生だ。新たに生じる有はもう二度とない。」と宣言しました。これを獅子吼などとも言います。病気の原因がわからなければ対策、特効薬は作れないのと同じ様に、苦に関しても原因がはっきりわからなければ、対策は立てられないのです。しかし、ブッダは苦とは何か、ということと、苦の発生の仕組みを発見しました。これによって、苦が発生しない状態と、その状態の実現方法も発見しました。苦と、苦の原因と、苦の消滅と、苦の消滅のための方法の四つです。これを四聖諦と言います。般若心境で「苦集滅道」とあるのは、この四聖諦のことです。四聖諦を発見したので、ブッダは「悟った、大悟した」と宣言したのです。

 ブッダが大悟した当時、他にも苦について真面目に研究している人はいました。その時に唱えられていたいくつかの説があります*1

1.苦は自分(内側)が作り出すものだ

2.苦は他人(外側、外界)が作り出すものだ

3.苦は自分が作るものでも他人が作るものでもなく生じる

その他にも場合によって

4.苦は自分が作り出したり、他人が作り出したりする

という説もあったようです。これらの話はどれももっともらしく、今の人でもどれが正しいとすぐには結論が出せないと思います。

 しかし、ブッダは苦はこれらの説のどれでもない仕組みで発生していることを発見しました。それは、目耳鼻舌身心の六つの根(六根)に、対応する光音臭味触考*2が合わさり、それに対応する六識である眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識が合うと、「触(しょく、パッサ)」が生じる、と言う点が肝になっています。

 もう少し解りやすい例で考えてみましょう。目に何か物が映ったからと言って、人は必ずしもそれを「何かだ」とは認識していません。例えばファッションに興味のない人の前に他の人がいて、その人が着ているのが当節流行の服だったとしても「あ、今流行の服だ」などとは思いません。そもそも認識すらしないでしょう。しかし、ファッションに興味津々の人なら、その服を見た瞬間「その光、映像を自分の知っている何かだ」と認識する働きである眼識が生じるので、目、光、眼識の三者が合わさり「あ、何々の服だ!」と言う目の「触」が生じます。この時人は物事を「自分に関わって発生した事象だ」と(主観的に)認識するのです。

 この流行の服の例では、両者の目に同じ物が映っているのですが、前者(興味のない人)には目の「触」が生じませんが、後者(興味津々の人)には目の「触」が生じています。触が発生していない人には、その事に関する何事も生じないので、心は何も変化せず、苦は生じません。ところが触が発生すると、何かしら心に影響があります。心に影響がある、心が波立つ、と言うのはそれが喜びであれ悲しみであれ何であれ、実は苦です。

 この服の例えでは、前者の心には何も起きていませんが、後者の心には「あ!あの服!」というだけでさざ波が立っていますし、あるいは「あ~あの服いいなぁ欲しいなぁ」となるかもしれませんし、あるいは「あの服流行ってるけどイマイチだよね」などと思うかもしれません。いずれにせよ触から生じる感覚(この場合は目の感覚「眼受」)を「自分のもの」と掌握し、何かしら心に変化、つまり苦が生じています。縁起に関する詳しい話は他の記事などで説明していますが、触から掌握する六根の感覚、つまり「受」はそれを「自分のもの」と思えば苦の原因になるのです。

 苦の原因である、六根(目耳鼻舌身心)の感覚、「受」が生じるためには、「触」という原因があります。触は、六根および六識という「内側の原因」と、光音臭味触考という「外側の原因」が揃って初めて生じます。つまり、苦の発生の仕組みは上記の1~4のどれでもなかったのです。

 苦に関する真実は、苦は内側の原因だけで生じる、あるいは、苦は外側の原因だけで生じる、と言うどちらの偏った考えで示されるものでもなく、内側と外側の両方の原因が全て揃って生じる、と言う「中道」のダンマだったのです。これがブッダの唱える「中道」の直接的なものです。「中道」は他にも望んで快楽にふけることと、望んで苦ばかり求めることのどちらの極端に偏るのでもないもの、など色々な事で示されていますが、「縁起」中でも「触」に関する中道は最も重要な意味を持つと言えるでしょう。

 さて、少し縁起と執着についての関係も見てみましょう。縁起の中に渇望があって執着が生じると言う教えがあります。この執着には四種類があります。欲取、見取、戒禁取、我語取です。欲取は愛欲(主に肉体で感じる欲)の満足に関する執着、見取は見解に関する執着、戒禁取は間違った方法に関する執着、我語取は「自分」という概念に関するあらゆる執着です。

 どんな物事であろうと、執着がなければ縁起は発生しませんから、苦はありません。執着は「自分」と言う主体が原因で生じます。完全に「他人のもの」と思っている事に執着する人はいません。

 ここで誤解のないようにしたいのは、法律上他人の所有物や人、地位などの概念だと認識していても、もしそれを手に入れたいと考えれば、少なからず「自分の関心事」になっているので、広義には「自分のもの」と認識する執着があります。心の底から完全に「他人のもの」「他人事」とみなしていることに執着する人はいません。仮に誰かが死んでいたとしても、完全に見ず知らずの「他人事」なら、人は心を動かさないのです。

 逆に少しでも「自分」に関連のあることとみなすと、人は心を動かします。噂話なども、他人事なのですが「自分の関心事」になっているので興味津々になる訳です。ブッダは上記の四取が全ての執着である事を発見したのですが、中でも我語取が全ての執着の大ボスだと発見しました。何故なら「受」を「自分のもの」と思い込むことが苦の原因なのですから、「自分のもの」と言う執着を全て捨てれば苦は消滅するからです。この仕組みを発見したのはブッダだけであり、当然他の人は「我語取」を規定できていませんでした。我語取がなければ普通の人が認識している意味での「自分」がなくなるので、何にも執着はしなくなります。広義での所有の主体となるものがなくなるので、執着も当然残りません。これも原因(自分)の消滅による結果(執着)の消滅です。執着は「自分」の結果ですが、同時に「苦」の原因でもあります。執着と言う原因が消滅したので、苦と言う結果も消滅します。

 我語取が無くなれば全ての苦は無くなるので、我語取、自分と言う概念、つまり主観は無明そのものと言ってもほぼ差し支えないでしょう*3。また、五蘊(心身)を自分と思い込む執着である「五取蘊」が無くなれば、「自分」と思い込む対象がなくなるので当然「我語取」も無くなります。五取蘊と我語取は示す対象が「心身」と「自分」なので概念や説明が多少違いますが、どちらも無くなれば苦が終わると言う点では同じようなものと言えます。

 縁起で示される苦の原因である執着「取(ウパダーナ)」が消滅すれば、結果である苦も消滅します。普通の人が認識する、あらゆる所有の主体である「自分」と言う概念が無くなれば、苦は無くなると言うのが、苦に関する因果であり、ブッダの大悟したダンマです。このようにブッダの教えの全ては因果で説明されます。同じく重要な概念である「無常」は因果を説明するための大切な要素です。無常で変化するので好ましい状態は維持できず、失われ、結局苦になる、そういう苦であるものは自分、自分自身と執着できない、と言う「無常、苦、無我」の三相も、執着や縁起、因果の説明の一形態なのです。

*1:相応部 アビサマサンユッタニダーナ 16巻41頁76項

*2:この触はパッサの触ではなく、物理的な接触の意味です

*3:無明がある、つまり無知だから全ての出来事を主観的に見てしまう仕組みであり、無明が主観的な行、識、名身、、、を生じます。客観的であれば無明はありません。