ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

受で止める

受(感覚)は、六根である目耳鼻舌体心に光音臭味接考が接触し、それらを意味付けする六識が合わさる事で生じます。
例えば目に光が入り、その情報を認識(眼識)、意味付けする事で眼受が生じます。

これはどう言う事でしょうか。例えば流行の服装をした人とすれ違ったとき、服装に大変関心のあるAさんは「あ、今流行の服だ。」と認識しますが、流行りの服装などに全く関心のないBさんはその通行人が目に映っていても「見もしません(認識、意味付けしない)」。

この場合Aさんには「流行の服装」と言う眼受が生じていますが、Bさんには服装についての眼受が発生していません(ただ、「通行人」と言う眼受は生じているかも知れません)。

この様に、人は無意識のうちに関心のある感覚に経験に基づいた意味付けをしています。これを「受を掌握する」と言います。受を掌握すると言うのは、つまり受を「自分の関心事」、「自分のもの」と思う事です。

これはほとんど誰もが無意識のうちにその様にしていますが、受は当然永遠には続かない無常のものであり、維持出来ず、それを自分のものと考えれば必ず失われます。

また、この様に受を掌握する人は、いつも好ましい受を求め、好ましくない受を嫌う心があるので、受が生じる度に心は揺れ動き、心は落ち着きません。これはつまり思い通りにならない、空虚で、苦である状態と言うことです。

逆に見れば、受を自分のものと掌握しない人、受は無常であり、必ず返却することになるレンタル品であると客観視出来るなら、受で一々心は動揺しません。この様に受を掌握しない事を「受で止める」と言います。これは「無我」を理解した状態とも言え、涅槃に到ると言っても良いです。

感覚の完全な消失、あるいは想(眠らず、覚醒している、意識がある状態)の消失を涅槃と解釈する説もありますが、ならば眠っている人や、全ての感覚が麻痺している人、あるいは肉体の死が涅槃と言う事になります。

何が事実なのかは各自で検証してみると良いでしょう。