ブッダダンマ各論

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「私」を捨てて二の矢を避ける

前回の記事では「私は正しい」が怒りの燃料だ、怒りで「二の矢」を受けていると言う事を見ていきました。

実は深く事実を観察すると、人は怒りに限らず、ほとんど常に「私は正しい」を燃料にして行動しています。ぼんやり散歩に行くときなどですら、まず「これは間違っている」などと思ってはいません。

逆に「私は正しい」と思えない事は、びくびくしながら、あるいは本当に嫌々ながらするか、あるいはその行動自体を止めてしまいます。

人の心を良く観察してみると、ほとんどの人は全て「私は正しい」、あるいは「私はこう思う」と言う主観に支配されています。

以前の記事にも書きましたが、例えば同じ犬を見たとしても、犬好きの人は喜び、犬嫌いの人は毛嫌いし、関心のない人は何も感じません。同じ現象でも人によって反応はそれぞれで、つまり人の反応はその人に依存して違います。

皆客観的事実を見ずに、それぞれ主観で「私はこう思う」に支配されていますから、意見が合う人同士では意気投合し、合わない人同士ではいがみ合います。

ここで問題なのは、大抵の人は「私はこう思う」と言う主観を、普遍的真実だと思い込んでしまう、つまり錯覚に陥る事です。この錯覚があらゆる苦であること、望ましくないことを招いてしまいます。

例えば「私は大変魅力的な人で、しかも外見だけでなく中身も素晴らしい」などと思い込んでいる人がいて、しかし他の人からは単に勘違いした疎ましい人だと思われていれば、勘違いした人は望む通りにはチヤホヤされないので大層苦しむ事になります。そして心を守るために「皆が愚かで見る目がないから、私の魅力が解らないのだ」などと主観、つまり妄想を酷くしていきます。

実際にはあらゆる主観は妄想であり、事実ではありません。事実とは、「これはこうである」と言う普遍的なもので、智慧のある人なら全てが同じ見解を示す事です。例えば「水を温めればお湯になる」とか「地面は一見平らに見えるが、規模の大きな視点から見れば惑星の表面であり、丸い」と言う様な話は、誰も否定できない、その通りの事なので、これを事実と言います。こう言う話には、「私はこう思う」と言う妄想が一切混ざっていません。

さて、いよいよ二の矢の話を見てみます。前回、怒りは「(状況が)私の都合に悪い」と「私は正しい」の二つが揃ったとき発生して、後者の強さに応じて燃え上がる仕組みを見ました。前者は環境に依存する原因なので、仏教では「外側の原因」と言い、後者は心の原因なので「内側の原因」と言います。

見聞きできるもの、触れるもの、五感と心で感じることのできるものは全て無常で変化しますから、どんな人にも当然望ましくない状況、都合の悪いことは降りかかります。生きている限りこれを避ける事は出来ません。つまり外側の原因を完全に排除する様なことは不可能なので、怒りも含めた全ての静かでない心の状態、つまり「二の矢」を外側の原因からアプローチする、解決するのは無理です。世俗の人はこれが見えないので、一生懸命外側の原因をいじろうとします。例えばお金を沢山手に入れて望みを叶えようとしますが、こう言う方向はまるで頭を隠せば尻が見える話の様に無理なので、この方向はいくら努力しても無駄で、効果がありません。

仏教ではこの様な不可能な方向のアプローチ*1は捨てて、現実的に制御可能な内側の原因に着目することを示しています。つまり、「私はこう思う」と言う妄想を捨てて、事実のみを見る方向です。

無常の現象にいちいち主観と言うフィルターを通すと、必ず思い通りにならない状況が生じて、それを苦しむ羽目になります。客観的事実は、「私はこう思う」と言うフィルターがかかれば見えなくなります。この主観と言うフィルターは、つまり事実を見えなくする目隠しなので、フィルターがかかっていること、主観から離れられない状態を仏教では暗闇で物が見えない事になぞらえて「無明に覆われている」と言います。

前回の記事でも述べた様に、怒りは典型的な苦しみ*2ですが、「私はこう思う」とか「私は正しい」と言う妄想から離れた時、怒りや、あらゆる静かでない心の状態が生じる原因は揃わないので、苦しむ事がなくなるのです。

この話はちょっと聞いただけでは「いや待って、誰でも「私」はあるよ。「私はこう思う」から離れるなんて無理だよ。」と思うかも知れません。実はその反応自体が既に客観的でなく、「私はこう思う」に陥っているのです。

例えば前回の煩いヘッドフォンの人の話でも、たまたま映画にそう言うシーンが出てきたとき、あるいは人づてにそう言う話を聞いたとき、その場の被害者の様に本気で怒る人がいるでしょうか?多少は不快に感じたとしても、大抵は「これは伝聞だ、気分の問題はあるが、私の都合に切迫する訳ではない」と思うので、一々心の底から怒る事はない筈です。

この例の様に当事者にならなければ、「私の都合」は介在しにくいので、比較的「私」から離れる事は易しくなります。これを常に行えれば、客観的になれるので、その分だけ苦が減るのです。

他の例で見れば、良く知らない人が傷害事件の被害にあったと言う話を聞いたとします。毎回その被害者に心の底から同情して、加害者に対して怒り狂うでしょうか。大抵は自分の都合に関係ないので「そうなんだ」程度の感想しか抱かないでしょう。こう言う場合怒り狂う様な苦からは離れているので、この件に関しては「苦」がない、あるいは少ないです。客観に近いからです。

ところが当事者になった途端に「私が被害を受けた」とか「私は悪くないのに酷い目にあった」などと考える*3ので、物理的身体的な損害だけでなく、何より心で苦を掌握してしまうのです。例えばお金を盗まれた時、金銭を失っただけでなく「私のお金が失われた」と悲しみ*4、心で苦しみます。この心の苦は「現象」と言う「一の矢」に呼応して二発目を受ける事に相当するので、「二の矢」と言う訳です。

何故二の矢を受けてしまうのでしょうか。人だけでなく生き物は全て肉体と遺伝子の保存のために、外部の脅威を排除し、食料を確保し、生殖する様にプログラムされています。

何も知らずにこのプログラムに支配されていると、客観的な視点は持てず常に主観でものを見るため、「内側の原因」である「私」があります。これは苦を掌握する準備、つまり二の矢を受ける準備が整っている事を意味します。したがって無常の変化で「外側の原因」が生じたときに、心は否応なく二の矢である苦を掌握することになります。

怒りに限らず主観で反応した心の状態は全て「苦」です。快楽を感じて喜んでいるときも実は苦なので、普通に自然の状態に流されて生きていれば、苦から逃れる事は絶対に不可能です。

さて、主観は事実を見えなくするフィルターだと見ましたが、これはつまり「私」と言う観点が事実ではないと言う事なのです。「私」と言う錯覚を捨てられれば、全ての苦は消滅します。これは最終解脱の段階で体得できる「無我」ダンマですから、すぐに理解出来ないとしても仕方ありません。しかしよくよく検証して行けば行くほど、「私」、「自分」と呼べるものはこの世にない、と言う結論になります。

二の矢、つまり苦を掌握しない方法とは、「私」、「自分」を捨てること、あるいは「私はこう思う」、「私は正しい」を捨てることです。何かを見聞きしても、「これはこうなっている」「これはこうだ」と言う客観であれば、心で掌握する苦はありません。これは最高の真実の中でも特に最高の真実と言えます。

*1:専門用語で無駄な方法を正しいと信じる事を「戒禁取」と言います

*2:私は今怒っていて最高に幸せ、と言う事はありません。怒りは必ず不快です。

*3:被害者意識の強い人は、つまり「私は悪くない」、「私は正しい」が強いので、いつも二の矢を受ける人で、落ち着きがなく、地獄の住人なのです。

*4:「私のお金」でなければどうと言う事はないのですが。