ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

四聖諦を学ぶ

四聖諦はブッダの発見した最高の真実です。どういう形であれ四聖諦を知らない人は、無明が原因で生じる苦から逃れる事は出来ません。四聖諦は苦に関する自然法則なので、数学や物理学の様に独力で発見する事も理屈の上では不可能ではありませんが、普通はとても困難な上に既にゴータマブッダが教えを示していますから、難易度を下げるのと時間の節約のためにブッダの教えを教科書として学ぶ方が良いです。これは学校でものを学ぶ方法と同じです。

 

四聖諦とはどういうものでしょうか。それは、苦と、苦の発生原因と、苦の消滅(苦が発生しない状態)と、苦の消滅に到る方法の四つからなります。

 

苦諦(苦とは何か)

最初に苦とは何かと言うことから見ていきます。苦とは何でしょうか。それは老い、死ぬこと、嘆き、悲しみ、全ての悩み、苦しみ、不満足、虚しさなどの全ての良くないもののことです。何であれ変化することは、必ず喪失、落ち着きのなさ、浮き沈みをもたらします。そう言う変化する全て、つまり無常の全ては、もし「自分のもの」と思い込んで掌握していれば、必ず失われるので苦と言えます。

良いものとは何でしょうか。それは、失われないもの、嘆き悲しみをもたらさないもの、つらいと感じないことです。それは変化しないことによって維持できます。

しかし無常の全ては変化し、これを止める事は出来ません。

 

集諦(苦の原因とは何か)

苦の原因とは何でしょうか。それは、苦とは何かが見えた今実は既に明らかです。苦の原因は、変化すること、つまり無常が苦の原因のひとつです。そしてもうひとつの原因は、無常に限らず全てに関して「自分のもの」とみなすこと、思い込んで掌握することです。

 

目で見えるもの(光、色)、耳で聞こえるもの(音)、鼻で嗅げるもの(臭)、舌で味わえるもの(味)、身体で触れるもの(接触)、心で考えられるもの(想い、念)、これら六つの全て、つまり六処入、あるいは六根を「自分」と言う錯覚から生じる主観(六識:眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識)で「(自分にとって)好き、嫌い、好きでも嫌いでもない」と判断し、色音臭味接考と、眼耳鼻舌体心と六識によって六処入による受が生じます。

 

受(六処入から生じる五感と心の感覚、感受)をやはり主観で「自分のもの」と思えば、受は無常で維持できず、必ず失われることにより苦となる仕組みです。しかし、普通の人は無知なのでこれらの苦に関する真実を知らず、六処入(六根)から生じる感覚、つまり受を「自分のもの」と思います。自分のものと思っているので良いと思える状態、つまり喜びの感覚(幸受)に執着します。しかし喜びは無常の変化で失われるので実は苦です*1。良くないと思える状態、つまり痛みや苦しみの感覚(苦受)も、例えば「私が痛みを感じている」と掌握するので当然苦です。良いとも良くないとも言えない状態、良いとも悪いとも感じない感覚(不幸不苦受)も、やはり自分のものと掌握していれば失われて苦になります。

 

まとめると、苦は無常のもの(外側の原因)を「自分のもの」と思い込むこと(内側の原因)、が揃って生じます。しかし苦に関する真実に対する無知、つまり無明が原因で人は六処入(六根)から生じる受、つまり無常のものを「自分のもの」と思い込むことから離れられないので内側の原因があり、外側の原因つまりあらゆる受が生じた時に、「全ての原因が揃うので」必ず苦になります。この仕組みは、苦の発生の原因を示しています。

 

滅諦(苦の消滅とは何か)

苦の消滅とは何でしょうか。内側の原因と外側の原因が揃わないとき、苦の発生のための全ての原因が揃っていないので、苦は生じません。外側の原因は、無常による変化で発生したり発生しなかったりするので、苦の消滅のための拠り所、当てにはなりません。

 

安定した苦の消滅、つまり涅槃への到達のためには内側の原因を見る必要があります。すなわち、何であれ「自分のもの」と掌握しないことです。苦に関する客観的事実が見えて、つまり無明が晴れれば、「自分」と言う概念が錯覚であり、錯覚に依存して何であれ「自分のもの」と掌握しないので、苦の原因、つまり縁起が消滅するので内側の原因が揃わず、外側の原因に関係なく苦は発生しなくなります。これを苦の消滅と言います。

 

道諦(苦の消滅の原因とは何か/苦の消滅の方法)

上記の苦の消滅のための方法とは何でしょうか。これはつまり内側の原因を消滅させる方法です。すなわち、「自分」と言う錯覚、執着である我語取を捨てる事です。

我語取を捨てるにはどうすれば良いでしょうか。それは「自分」と言う間違った見解を正して、苦に関する客観的事実を知ること、すなわち正しい見解である正見を身に付けることです。

 

正見があるとき、苦を消滅させようと言う正しい意思、希望である正志があります。正志がある人の言葉は苦滅のための正しい言葉となり、正語があります。正志があれば、正語と共に苦滅のための正しい行動である正業があります。言動が正語と正業であれば、自然と生活も正しくなり、正命となります。また、これらの正しさを維持しようと言う正しい努力である正精進があります。これらの全ての正しさがある時、油断がなく、常に心に正しく気を付けられるので、正しい注意である正念(サンマーサティ)があります。正念が保たれているとき、心は安定した禅定が保たれて正定(サンマーサマーディ)があります。

 

これらの八つは全て連動しているので、どれかが出来ていてどれかが出来ないと言う事はありえません。例えば正語がないのに正見があると言う様な事はないのです。

 

これら八つの項目からなる正しさを八正道と言い、八つ全てが揃っている時、内側の原因である「自分」「自分のもの」と言う掌握がないので、これらの八つの正しさを保つ方法によって苦が消滅します。

この八正道の水準が完璧になったとき、苦に関する無知、無明が晴れて消滅し、正しい智慧が生じます。この正しい智慧(サンマーパンニャー)によって、正しい解脱(サンマーヴィムッティ)に到達し、全ての掌握と苦から離れた涅槃の境地に到達します。

 

以上の四つの苦に関する客観的事実を四聖諦と言い、苦を消滅させるための方向を示す唯一のダンマ(法)なので、これを最高の真実と言います。

 

*1:普通の人は苦である喜びの受(幸受)を「幸福」だと間違って認識しているので、積極的に苦を求めます。すなわち、好ましい家族、恋人、財産や地位と言った無常のものを求め、喜びの受を自分だけ沢山得ようと思います。この間違った認識が改まらない限り、決して苦の消滅に到ることはありません。滑車の中で餌に向かって走り続けるネズミの様に、無限とも言えるほど何度も苦を掌握し続けます。これを輪廻と言います。