ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

議論と有益な話

世間では良い議論をすれば互いに知見(知識)を高め合える、などと信じている人はいますが、議論は大抵の場合結論を知らない者同士が話し合う事を意味しています。良く見れば当たり前のことですが、知らない者同士が話し合ってその議題について何か新しい事実を発見する、というのはかなり望みの薄い、確率の低い事だと言えます。

また通常どの論者も自身が正しいと言う前提を持っているので、大抵の議論は単なる主張のぶつけ合いとなり、いがみ合って終わりになることがほとんどです。

この様な事は有益であるとは到底言えませんが、科学の分野では否定とそれを防衛(diffence)すると言う事が前提とされています。日本語では学位論文の発表はdiffenceとは言われませんが、英語圏ではdiffenceと言います。これはそのまま「自分の意見を守る」と言う意味で、反対意見をどれだけ説得力を持って打ち破れるかと言う事です。無論普遍的事実を示すのならば、どの様な反対意見があってもそれを否定することはできますが、この考えは問題があるのです。

つまり、diffenceとは「自分の意見」と「守る」と言う事に重きが置かれている訳で、到底「自分」「自分のもの」は無い、と言う最高の真理からはかけ離れたものです。この様な考えが蔓延していますから、当然科学の分野でも一種の信仰と呼べるような話は多くありましたし、今でも沢山あるでしょう。また、「権威のある誰々先生が言っていたから」と言う様な話をまるで客観的事実の根拠の様に考えている人も少なくありません*1

一方ブッダの示す事は「誰でも体感できて、時と場所を選ばず確認できる事だけを普遍的事実として見なさい」というものです。これは非常に科学的な考えです。しかし残念ながら科学の分野でも人が関わる以上信仰は見られる訳ですから、当然仏教の分野においても色々な信仰、根拠のない話が沢山付け加えられています。

話を戻すと、有益な話とは未知の者同士が自分の意見をぶつけ合う事ではなく、結論を知っている者、実践の上位者が、知らない者、未だ実践出来ない者に教え諭す事です*2。世間で言うような「議論」は、あまり有益なものとはならないと言う事実は、知っておいて損のないものです。

*1:ミリカンの油滴実験の測定値の話のように、人の話に依存して他の人が実験値から測定値を意図的に前の人に近い値になるように選ぶと言った話もあります

*2:もちろん知っているふりの者が偉そうに語っても何の意味もありません