寂しさ、孤独感とその克服
六根の喜びが苦、というのはこのブログの読者の方ならばご存知でしょうし、感情はそれを「自分のもの」と思って支配されれば苦です。当然「寂しい」「孤独だ」と言う感情も例外ではなく、むしろ普通の人にも解りやすい苦です。 少なくとも「寂しくて幸せ」とか「孤独感で幸せ」と言う人はいないでしょう。 しかし、結論から先に言いますと、寂しさや孤独感と言うのは比較的容易に克服できる類の感情です。かく言う私もダンマを学ぶ前は随分孤独感に悩まされたものですが、これはかなり早い時期に克服出来ました。ダンマを学べば心を好ましい、愛する誰かに依存することが明らかな苦だと見えるからです。
まずは具体的になぜ「寂しい」という感情が発生するのかを見てみましょう。感情の発生プロセスを客観的に観察して制御する(捨てる)のが「サマタとヴィパッサナー」であり、仏教で一番大切な修行方法です。
「寂しい」というのは客観的に見れば「自分に都合よく接してくれる人が身近に居て欲しい」と言う欲望から生じる感情です。もし身近に人がいても、うるさくガミガミ言う人、何かしら用事を命令してくる人、暴力を振るう人などだったら居て欲しくないのです。それなら一人の方が良いと誰でも言うはずです。
つまり寂しいときは心身を依存する、端的に言えば性的に接する恋人や、愛嬌を振りまく子供やペット、やさしく接してくれて頼みごとを聞いてくれる家族などが身近に居て欲しいのです。しかしこれが身勝手な欲望である事は明らかです。
また、仮に恋人と言えどいつも気の向いた時に会える、あるいはセックスできる訳でもなく、時にはつらく当たって来たり、要求がうるさかったり部屋を散らかして害となるかもしれません。子供やペットは食事やトイレの世話を要求してきます。やさしく食事を作ってくれた親は、いつの間にか寝たきりの要介護者になり、仕事で疲れている自分が介護しなければなりません。
そもそも自分の心身すら思い通りにならないのに、家族でもそうでない人でも、完璧に自分に都合よく振舞ってくれる人が身近に居て欲しい、というのが無理な要求なのです。
望みがあってもそれが無理な要求であることが心の底から納得できれば、望む事自体が苦の原因であり害だと見えます。例えば不老不死の肉体を望む様な事は明らかな害です*1。害が見えれば人恋しさは無くなり、寂しさは生じません。
他にも低い水準の観点ですが、少しくらい部屋を散らかしてもうるさく言われませんし、トイレの順番待ちで困ることもありません。いつ食事をしても洗濯物をいつ洗おうと文句を言われることはありませんし、テレビのチャンネル争いも生じません。少なくとも要求ばかり多い身勝手な同居人と共に居るよりも、一人で居ることと言うのは俗世間のレベルですら利益の多いことなのです*2。
基本的に「苦から逃れるためには心の持ち様次第で、人や物などは何であろうと心の拠り所にはならない」と言う真実を知っていれば、「寂しい」と言う感情は比較的容易に制御できます(捨てられます)。寂しさは少なくとも性欲より余程簡単に克服できる類いの感情、欲望と言えます。