ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

怒りと苦しみ

怒ると言うのは本当に苦しい事で、怒っているときに無上の幸福を味わっている人はいないでしょう。

私もダンマを学んで実践するまでは、瞬間湯沸し器の様にすぐカッとなる様な性格でしたが、それこそ毎日24時間、我、身勝手を減らす様に心を注意してきて、最近はほとんど怒ると言う事がなくなりました。

イラっと来ることも滅多になく、仮にあっても全く永続きしません。心が怒りから離れると、不幸な時間はほとんど無い事に気付きます。

怒っている間は、心は平静とは対極の状態にある訳ですから、この世で最も不幸な状態であると言えます。

怒っていなくても、欲にかられているときや、不安なとき、嘆き悲しんでいるときなども怒るほどではなくてもやはり不幸です。

この様な心が不幸な状態を、ダンマでは「苦」としています。怒ったり、嘆き悲しんでいるときは少なくとも楽ではなく、苦しいので、これは妥当な定義ではないでしょうか。

どうすれば怒らずに済むか、と言う詳しい話はブログに記事がありますので、そちらをご覧頂ければと存じます。

簡単に言えば、怒る理由は「自分の都合」通りに行かないからです。「自分の思い通りになれ」と言う身勝手さがなければ、怒りは生じません。

そうは言っても簡単に身勝手さは減らせないので、「地道な日頃の努力」と言うありふれた、多くの人はあまり聞きたがらない事以外に方法はないのが現実の厳しい所だと思います。

怒りを少しでも減らして頂き、読者の皆さまの苦が減ることを願っております。

無明、我語取、五取蘊

縁起は、真実をありのままに見られない状態である、無明から執着が生じて苦になる事を教えています。

無明があるので四種の執着(取)が生じます。欲取、見取、戒禁取、我語取です。欲取とは五欲(目耳鼻舌体)の満足への執着です。見取とは自分の考え方に対する執着です。戒禁取とは、効果のない祈願、儀礼、儀式を正しいと思い込む執着です。我語取とは、これら全ての執着の原因となる「自分」「自分のもの」と言う感覚への執着です。

我語取さえ捨て去れれば(抜き取れれば)、他の全ての執着は捨てる事が出来ます。何故なら執着する主体となる「自分」と言う発想がなくなるからです。自分がないのにどう執着するのでしょう?これは不可能です。

この様に我語取を捨てる事が出来れば、無常のものを間違って「自分のもの」と掌握しないので、苦はありません。これが苦の終わりです。

五取蘊とは何でしょうか。五取蘊とは体である「形」、感覚である「受」、自覚、記憶などである「想」、考え、心を作り出す「行」、感覚をもたらす認識作用である「識」のこれら五蘊を「自分自身」「自分のもの」と執着することです。五取蘊を捨てられれば、これは我語取を捨てられたのと同じなので、やはり苦の終わりになります。

いずれにせよ、無常で変化するこの心身を「自分」「自分のもの」と執着しなければ、苦はありません。

要約すればこれがブッダの教えの全てであり、完璧な滅苦を行うための唯一の方法です。

縁起と輪廻

肉体の死後の輪廻は皆さん関心のある話題の様です。

第一義諦の縁起の話も生老病死の因果の話があるので、死後の輪廻について語られていると言う見方も当然あり得ます。むしろそう取る方が自然です。

ブッダは普通の人が死後に再び生まれる原因は渇愛(欲望)だと述べています。この死を文字通り肉体の死と解釈しても良いのですが、それだと苦は一生のうちに一度しか生じない理屈になります。

人生を通じて実際に苦しい思いをするのが一度な訳はないので、縁起の教えが肉体の生死だけに限定されると見るのは無理がありますし、現実にも当てはまりません。

何よりブッダは度々「生きている間にすべきこと」「渇望を捨て去り、今後気を付ける必要がある/ない」と比丘に教えています。このことから、第一義諦である縁起に述べられている苦は、肉体が生きている間に何度も生じる頻繁なものであることを示唆していると言えるでしょう。それならば人生において何度も苦が発生する事実とも合致します。

しかしもちろん、縁起はまるきり肉体の死後の輪廻を否定もしていません。死後新たに生まれる事を許容するなら、なるべく善行をすべきでしょうし、本当に輪廻を害と感じて、輪廻から抜けたいなら渇望を捨てて縁起の流れを消滅させるべきでしょう。

この辺は各自が何処を目指すかと言う話になってきますが、ブッダは「輪廻は害」とはっきり述べていますから、やはりこのダンマを学べたことを貴重な機会と見て、輪廻から解脱することを目指した方が良い様に思えます。

議論と口論

ブッダが教えを説いたインド周辺では、議論が盛んな文化があった(ある?)ようです。

多くの人々が「何故?」と言う事を良く考え、感情的に少々不満を感じても、論理的に納得できれば認めると言う考え方は、日本にはやや馴染みが薄いのかも知れません。

しかし国がどこであろうとも、誰でも自説を頭から否定されればムキになり、争いを招く火種になりえます。そこでブッダはその様な争いを招かない様に、細心の注意を払ってダンマを説いた様です。

経に良く見られるブッダの手法は、相手が何かを主張したとき「私はその話を肯定も否定もしません。それは貴方の正しさです。ところで私はこう思うのですが、これについて貴方はどう考えますか?」と持って行くものです。

確かに、多くの人は世俗諦を前提に物事を判断しているので、世俗諦を議論してしまうと相手の意見の否定なしにブッダの説くダンマ、つまり第一義諦に話を持っていく事は出来ません。

つまりブッダのやり方は、相手の機嫌を損ねずに相手の話を置いといて(有り体に言えば放置して)自説を聞かせると言うものです。

こう見ると一見酷いやり方の様ですが、相手を嫌な気分にさせずにダンマの話を聞かせるためには、他に適当な方法がないことが見えてきます。

ただでさえ理解が困難なダンマを、自説の正しさを信じてやまない議論好きの相手に説くのは容易な事ではなかったでしょう。しかし、論理の筋道を正しく見る習慣のある人なら、ダンマは理解しやすい面もあります。

逆に感情や気分だけで行動して、筋道などは考えない人にダンマを説くことはとても困難でしょう。そう言う人は我が強く、筋道よりも自分の都合ありきですから、ダンマを見ることは難しいと言えます。

そう考えるとブッダが行った布教の道は、本当に一筋縄では行かない大変なものだったのだと想像されます。しかしその大変な偉業のお陰で今日私達はブッダダンマを学ぶことが出来るので、ブッダダンマ、それを伝えて下さった僧侶(サンガ)の皆さんへの感謝を忘れないこと、そして何より苦を減らして行き利益とすることが大切です。

徳と仏道修業

ブッダがアジャータサトル王に教えを説いたとき、王が在家信者となる意思を示したと言う経があります。

ブッダは弟子の比丘に、「王から深い信仰を感じた。もし王が父王であるピンピサーラ王を殺す罪を犯していなければ、彼は出家して阿羅漢となっただろう。」と言ったとあります。

この話は良く徳(パーラミ)と仏道修業の成果の関係を示す例えとして引き合いに出されます。

この話は次のように解釈できます。 アジャータサトル王は、父殺しと言う大罪を犯してまでして王位を手に入れました。もしこれをしていなければ、父王は生きているのでアジャータサトル王子は素直に信仰に準じて出家できた筈です。

しかし、アジャータサトル王は父を殺してまで王位に就いたので、ブッダの教えを聞いて出家したくても、「父を殺してまで手に入れた王位を無責任に手放す事は出来ない」縛りが生じているため、状況的に出家出来なくなってしまっていたのです。

この様に徳、行いによって生じた環境が、仏道修業に影響を及ぼすことは間接的な因果だけでなく、直接的に明らかな理由で説明される事もあります。全ての場合がこの様に明らかとは限りませんが、普段善を為して仏道の正しさが見える様な心の状態になっていれば、得られる成果もそれに応じて高いものになると考える事は出来ると思います。

ブッダの教えを直ぐに信じなくても、善を為すことで損をする事はないと正しく見ておけば、滅苦の道は自然と開けるのではないでしょうか。

身体の中の無常と禅定

有為の全ては無常と言うのがブッダの大切な教えですが、油断すると直ぐにこれを忘れてしまうのもまた人と言うものでしょう。

例えば歩いているときの身体を見てみましょう。呼吸は常に止まらず、吸って吐いてを繰り返します。つまり循環です。 右足を出して左足、また右足、とこれも循環です。身体全体を見ても、位置は当然移動して変化しますし、右手左手、体内の血液、全て一ヶ所に留まっているものはありません。

目に見える景色も常に変化しますし、聞こえる音、臭い、口の中の状態、足の裏から来る感覚、心、やはり全てが変化しています。

仮に歩いていなくても、身体は一瞬たりとも新陳代謝を止めませんし、周囲の空気の分子も常に動いています。 完全に静止して、何も変化しないものを見つける事が出来ません。

しかし唯一止まって静かになれるものがあります。それは心です。心は物質で構成される具象ではないので、受(感覚)、想(覚醒、記憶など)、行(考え)、識(六根で認識すること)に振り回されなければ、止める事が出来ます。

これは簡単な事ではありませんが、深い集中をすることで可能な事でもあります。深い集中によって心が内外から影響を受けることを遮断することを、禅定と言います。深い段階の禅定になると、覚醒していても(眠ってなくても)心が外界からの影響を全く受けなくなります。

しかし、座っている時に禅定になれれば禅定を知ったと言う誤解はありがちです。肝心なのは普段の日常生活です。人間は普段の生活の中で生きていますから、むしろこちらでの禅定が必要なのです。特別な理由がない限り、死ぬまでずっと座ったままの人は、普通はいません。日常で何かあったときに、受(感覚)に左右されてすぐ感情に支配される人は、静かに座って深い禅定に入れるとしてもあまり意味がありません。感情に支配され輪廻しているからです。

「出たり入ったりする定は良くない」と言う言葉がありますが、これはこの様な事態を指摘していると見ることが出来ます。つまり普段の生活において禅定となっており、感情に支配される事がない注意力が常に働いていることを「禅」だと見ます。只管打坐(ひたすら座禅する)と言うのは、単純に文字通り座り続けると見るのではありません。常に五感に注意して、心に気を付けていると見れば、これはブッダの言葉に完全に一致します。

仏教は人によって言葉の解釈、意味が大きく異なるものですが、自分で理解しないと「自灯明」「法灯明」とはなりません。つまり、仏教は何が正しいのかを、各自が自ら良く見てみるべき教えと言えるでしょう。

無為

これまでも何回か述べてきましたが、有為のものと言うのは存在のために存在が必要なもの、原因と結果、発生と消滅を繰り返すものと言う意味です。 我々人が六根(五感と心)で認識しているものは全て有為です。 物質の色、形や音、臭い、味、触感はもちろんのこと、心で感じる考えすら生じては消えるものです。どれも永遠に続くものはありません。いつも変化しています。 つまり有為なものは、全て無常です。 肉体や心も有為なので無常です。

一方無為とは有為の反対のもので、存在のために存在が必要ないものです。例えば物理法則は、目に見たり手に取れる存在はありませんが、存在しています。 ブッダダンマ、つまり滅苦のダンマも無為のものです。 無為のものは発生しないので消滅もしません。循環に組み込まれていないので、永遠に存在します。 涅槃も無為のものですから、当然手にとって見ることも、音を聞くこともできません。しかし、物理法則と同じで存在を知る、感じる事は出来ます。つまり涅槃は手に取って見ることはできませんが、それを知る、感じることは出来るものです。 なので、自分が涅槃になる、とか涅槃を手に入れる、私の涅槃、などと言うことは出来ません。 なので正しい表現は「涅槃に到る」、「涅槃を知る」、あるいは「涅槃を感じる」と言う事になります。