ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

喜びと苦

古い経を見ると、ブッダが比丘(僧)に無常で変化するものは苦ですか?と聞いて、比丘は「苦です」と即答しています。

さらりと書いてありますが、本当はこれは理解、納得するのはかなり難しいことなのです。何故なら、たとえば美しいものを見たときの喜びや、美味しいものを食べた時の味わいなどの喜びも、長くは続かず無常なので苦だと言う事になりますから。つまり普通の人が感じる喜びは苦だと教えているのです。

普通は誰でも喜びの受(感覚)を得るために日夜勉強したり働いて、良い伴侶と結婚し、住み易い、居心地の良い家に帰ってゆっくり暖かいお風呂につかり、可愛い子供たちに囲まれながら美味しいご飯を食べる様なことが幸せだと思っています。

それらの幸せなことを味わう感覚を、ブッダの教えは全部苦だと言うのです。これは到底すぐに「はい、そうですか」と納得できることではないでしょう。

しかしブッダの時代に出家して比丘になった人はブッダの教えが完全に正しいと思った人がほとんどですから*1、こんな難しい教えも正しいと思っている訳です。こういう人は少なくとも最初の段階の悟った人、世俗から解脱した人である預流者と呼ばれます。

無常で変化するもの、とは何でしょうか?自分の心身も含めて皆さんの身の回りにあるもので無常のものとそうでないものは何か考えてみてはいかがでしょう。

*1:一部は信じきれずに還俗したり、決まりを破って比丘の集まりから追放されています

感情の発生過程を見ることは縁起を見ること

ここまで縁起について連続して述べてきましたが、これまで私のブログでもツイッターでも感情の発生過程の中にある身勝手さを探して、それを反省して改める方法をお勧めしてきました。

実はこの方法は縁起の中の無明を減らすことと同じなのです。

身勝手な心があって、外側(環境)と内側(心)の原因が合わさって感情が発生し、苦しむ(喜ぶ*1)訳だから、心の中の身勝手さを減らして苦を減らしましょう、と事あるごとに説明してきました。

これは無明が縁で識があり、、、受が縁で欲があり、、、生が縁で老死、苦が生じるという縁起の過程の話と全く同じなのです。

身勝手な心が「無明」です。無明が何なのかを知れば、無明を捨てることが出来ます。私も相当身勝手な人間でしたが、この方法で身勝手さを明らかに減らすことが出来ました。実はこの方法が縁起に直結していると見えたのは最近ですが、見えてみればブッダが縁起が見えれば苦が減らせると教えているのはなるほどその通りであると得心が行った訳です。

具体的には、通勤通学のときに交差点で赤信号になって、「急いでいるのに!」とイラっと来たとします。イラっとした時点で既に苦です。

この発生過程を見てみると「一秒でも早く目的地に到着したい」という身勝手な心(無明)があるので、赤信号という外側の理由と止まりたくないという内側の理由が合わさって、「止まりたくないのに止まらなければならない」という状態になります。「止まりたくない」という欲から生じた執着の心が、止まらなければならないという外界(環境)とかみ合わないので「止まりたくないのに止まらなければならない」という界が生じます*2。そして「イライラ」という感情によって苦になります*3

しかし、もし急いでいたとしても「いいや仕方ない」と諦めて希望通りの結果を無理に求めない様に考えたり、「遅く出た自分が悪いんだし、悪い結果は自分の招いた種」と言う様に客観的に見られれば、赤信号位では全くイラっとはしません。三回信号待ちすることすら出来ます(遅刻を推奨している訳ではありませんが)。

このような感情の発生と消滅のプロセスを極めて詳細に見たのが十二縁起であり、この原理、仕組みさえ理解していれば普段の生活上で厳密に十二項目に拘らなくても無明を減らすことが出来ます。

喜ばしい、あるいは思わしくない事態が生じたときに、そこで感情が発生するのは無常で思い通りにならない、変化する外界(環境)に対して「こうなって欲しい」とか、「こうなって欲しくない」と考える身勝手、愚かさ、つまり無明があることが原因です。

無明を捨てれば、つまり身勝手に外界が自分の都合通りになる事を期待しなければ、こういう感情は生じません。そうなれば苦はありません。無明を完璧に捨てられなくても、捨てれば捨てるほど苦は減ります。

ブッダが縁起を重視するのは、ひとえにこの無明を把握して捨て去るためと言えます。カビの発生の仕組みを知らない人は、カビの発生を正確に抑えることはできませんが、仕組みの発生を詳しく知っている人は、カビの発生を抑えることができるのと同じことです。

 

*1:厳密に見れば六根の喜びは無常なので苦です。

*2:これが典型的な俗世間界(ローギアバヴァ)です。私も感情が発生する度に「駄目だ、これはローギアバヴァで、これは苦だ。」といつも気を付けていました。今も気を付けています。

*3:ターン・プッタタートは怒っている人はその間死人になっている、と仰っています。怒っている人は確かに地獄の住人であり、死人です。

縁起と無明

縁起が見えなければ私はサンマーサンブッダだと宣言しなかった、と言われるほど大切な縁起の教えですが、縁起の段階はいくつかの種類で語られています。一般的なのは十二縁起と言われる十一段で十二の項目からなるものです。この縁起では最初に無明(無知、愚痴)があります。すなわち、

無明があって行があり、

行があって識があり、

識があって名形があり、

名形があって六処があり、

六処があって触があり、、、、老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、全ての悩みが揃って生じます*1

この縁起の前半の解釈は簡単ではないのですが、苦が生じる原因となる触は全て愚かな触です。その前提で無明から順に追ってみます。

無明(無知、愚かさ)があるので、愚かな行(形成力、生み出す力)が生じます。愚かな行によって生じる識(自然に訓練しない六根で感じること)は当然愚かです。この識が生じたときに名形(心と身体)が生じます。

ここは議論のあるところで、解釈は諸説ありますが、ここでは識があるから名形に意味が生じる、と考えてみましょう。というのも、識がないと名形(六根)だけがあって何も意味のある反応が生じないからです*2

*後日補足解説

こちらのプッタタート比丘の選んだパーリ語経典のブッダバーシタ(ブッダの教え)があります。これらの経によると、識と名形の発生の順番は互いに入れ違っているので、やはり名形(心身)と識は相互に依存して生じていると考えるのが一番無理が無いようです。

問答の形の縁起の解説
マハーニダーナスッタ 長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻65頁57項他
アーナンダ。そのように言ってはいけません。アーナンダ。そう言ってはいけません。この縁起は深遠であり、深遠に見える状態もあります。アーナンダ。
知らないから、次第を知らないから、ダンマ、つまりこの縁起を洞察しないから、生き物群(の心)は、もつれた糸の塊ように、結び目がいっぱいで絡み合った糸のように、ムンチャ草やパッバチャ草のように絡み合っています。
中略
アーナンダ。「縁であるもので生じる名形はありますか」と質問されたら、「あります」と答えるべきです。続けて「名形は何が縁で生じますか」と質問されたら、「名形は識が縁で生じます」と答えるべきです。
アーナンダ。「縁であるもので生じる識はありますか」と質問されたら、「あります」と答えるべきです。続けて「識は何が縁で生じますか」と質問されたら、「識は名形が縁で生じます」と答えるべきです。
アーナンダ。このような理由で、識は名形が縁で生じ、名形は識が縁で生じ、触は名形が縁で生じ、受は触が縁で生じ、欲は受が縁で生じ、取は欲が縁で生じ、有は取が縁で生じ、生は有が縁で生じ、老死、悲しみ、嘆き、すべての悩みは、生が縁で一斉に生じます。この苦の山のすべては、このような様相で生じます。

http://space.geocities.jp/tammashart/engi/1-1.html

五蘊の規定の根拠
中部ウパリバンナーサ 14巻102頁124項

「スガタ様。何が形蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊と規定する原因であり縁ですか」。 比丘。四大種が形蘊を規定する原因であり縁です。 比丘。触(内処入と外処入と識の会合)が受蘊を規定する原因であり縁です。 比丘。触が想蘊を規定する原因であり縁です。 比丘。触が行蘊を規定する原因であり縁です。 比丘。名身が識蘊を規定する原因であり縁です。

http://space.geocities.jp/tammashart/siseitai/1-2.html

また、例えば目の触は、目(六内処入)に形(六外処入)が触れた事に依存して眼識(六識)が生じて起きる、とあります。識(vijnAna)と名形/名身(nAma rUpa)の発生順序は互いに依存していて、どちらが必ず先とは言えません。ただ、この十二縁起の順序が間違いとは言えない事と、当然この順番で滅苦が出来ないと言う事ではないでしょう。大切なのはブッダの言う様に、苦は内側と外側の原因が全て揃って生じると言う点です。これさえ抑えれば滅苦の実践は可能です。

*後日補足解説ここまで

科学的に考えると、五感の元である目耳鼻舌体があって初めて心や識が生じると考えがちですが、身体だけあっても心がなければ意味のある反応、すなわち触は生じません。触のときに生じる識は六つの各根に依存して生じる眼識、耳識、鼻識、舌識、体識、意識です。縁起で行の次に語られる三番目の項目の識はこれらの触のときに各根に依存して生じる識ではなくて、全ての愚かな識のベースとなるもの、全ての識の大元、発生源と解釈すると無理がありません*3

実際、経には目と形に依存して眼識が生じ、と語られているのでこの十二縁起で語られる識は、触のときに六処に依存して生じる各識とは別物と見なければ少々無理があります。

名形に意味が生じると六処が生じるのは自然な流れです。

六処が生じると触が生じます。この触は無明の流れの愚かな触なので、それによって生じる受も愚かな受になります。愚かな受は必ず欲を生じますので、ここから取(執着)~界~生~老死も含めた苦の山の発生まで止まることはありません。

無明とは自然の流れで生きていれば自らを守るために必ず生じる身勝手さ、自分と言う概念(我語取)とも言えます。無明から生じる、あるいは無明そのものである「自分」、「自分のもの」という概念が全ての苦の原因です。つまり縁起はこれを語った深淵な教えでもあります。

ブッダはこのダンマ(教え)は唯一我語取を規定したところが他の宗派と異なる完璧な滅苦の実践につながると説いています。良く見れば縁起も無明から生じる我語取を規定しているのです*4

なので縁起が見えなければ滅苦は成就しない、ということと、我語取を規定しなければ滅苦は成就しない、という二つの話に全く矛盾はないのです。

このあたりの解釈は意外と説明されていない気がしますので、一度ご自身で良く考えてみてはいかがでしょうか。

 

 

*1:触以降は前回を参照してください

*2:触は目耳鼻舌体心(内六処)に形音臭味触考(外六処)が触れてそれに応じた眼識、耳識、鼻識、舌識、体識、意識(六識)が生じて成り立つ

*3:もしここで名形を五蘊(形受想行識)で考えると議論が非常に混乱するので、十二縁起で語られる名形は六根のベースと見ます。

*4:それが明らかに語られている経を私は知りませんが、もしそのような経があったら教えて頂けますと幸いです。

縁起と心

ブッダは縁起の仕組みが見えなければ「解脱した」「アラハンサンマーサンブッダ」になったと宣言しなかったと言う経があります。 (中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項、相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項等)

縁起は苦の発生過程を完璧に分析したもので、特に触の仕組みは重要です。六処である目鼻耳舌体心に外界の形臭音味触考が触れるとそれに依存した識が生じて「触」が生じます。このときに「内部の原因(六処と識)」と「外部の原因」があることを発見したのがブッダの画期的な成果だと言えるでしょう。

例えば目と形に依存して生じた眼識が合って目の「触」が生じます(他の五つも同様です)。

触があるとそれが原因で「受」(感覚)が生じ、それに応じた気持ちの反応、つまり渇愛が生じます。

例えば目に桜の花が映ったとき、人がそれを「桜だ」と認識する(触の発生)と「美しい、好ましい」と言う受(感覚)が生じます。

逆に目にゴキブリが映ったとき、人がそれを「ゴキブリだ」と認識する(触の発生)と「うわ、嫌だ」と言う受が生じます。*1

触が生じるとそれが原因で受が生じ、受の種類に応じて好ましい、嫌いだ、どちらでもない、と言う感情が生じます。この感情が縁起で言うところの「渇愛」です。

感情が発生すると人は否応なしにその感情を「自分のもの」と認識します。これが縁起で言われるところの執着です。

執着が発生すると「自分は好ましいもの(桜)を見た」とか、「自分は嫌なもの(ゴキブリ)を見た」と思います。このときに「自分はどう(良く/悪く)なった」 と言う主観が発生しますので、これが縁起で言うところの界(有)になります。

界が生じればそれが原因で否応なしに「好ましい/嫌なものを見た自分」が生まれます。

この自分(と思っている実体のない状態、不変でない状態)は必ず無常で変化しますので、変化したときに、老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、全ての悩みと言った苦の山が発生します。

以上の過程がいわゆる「縁起」の教えです。これを実際の自分に当てはめて見てみるのが「ヴィパッサナー(詳しく観察する)」と言う事です。

他の説も色々あるかと思いますが、上記の過程の話が間違っているとも考えにくいのではないでしょうか。皆さんもこの様に縁起について自分で考えて見てはいかがでしょう。

*1:ここで一つ大切な点は、目に何か映っても、「認識」しなければ心に何も生じないところです。例えばカバンに全く興味のない人がお洒落な人のカバンを見ても、気付きもしないと言うことは良くあります。このとき「触」は生じていません。

「苦」と「諦める」

ブッダの教えを学んでいて、「苦」は最初に学ぶ事ですが、何が「苦」なのかを明らかに知るのはそう簡単ではありません。

確かに普通は歯が痛いとか、お腹が痛いとか、欲しいものが手に入らない、好きな人と別れる、そう言った事は簡単に「苦」だと納得できます。

しかしブッダの教えを良く見ると、「変化するものは全て苦」とあります。更に良く見ると、楽しいことや嬉しいこと、好きなものに触れること、好きな人と一緒にいることまで全て苦だと言うのです。

これはブッダの教えを学び始めてすぐの人には到底理解できない事だと思います。私もそうでした。

仮に理屈でそうだと思えても、実際には好ましいものに触れたいですし、見たいもの、聞きたいもの、良い香り、美味しいもの、心地好い接触(代表は性的な事)、心地好い妄想(楽しいことを思い出す等)からそう簡単には抜けられないのです。

「諦める」と言う言葉がありますが、普通の意味としては何かが叶わなくても、望ましい事態でなくても受け入れる、それ以上事態の変化を望まない、と言う事になると思います。 しかし、明らか+~める(~にする)と言う変化を見れば、「諦める」のは「明らかめる」、つまり「明らかにする」と言う意味に解釈することもできます。

つまり「明らかに知る」事を「諦める」と解釈すると、諦めるのは単に放棄すると言うだけでなく、「全て知る」「知り尽くす」と言う意味になります。つまり「苦諦」は「苦を諦める」、「苦を明らかに知る」「苦を知り尽くす」と言う意味と解釈できます。

実際、無情のものは必ず変化するので、一瞬誰かの思い通りになっても必ず失われます。人間は永遠に自分の思い通りの状態が続いて欲しいと願うので、楽しい、好ましい状態も必ず変化して失われます。

恋人や友人と楽しい時間を過ごしていると、あっと言う間に終わりの時間、別れの時が来たと言う経験は誰にでもあることでしょう。ブッダはこの様に必ず変化して失われるものを「自分のものだ」と強く思えば思うほど失われる苦しみが大きくなることを説明したのです。

そうは言っても理屈を言われてすぐ納得出来るなら苦労はありません。実際には「苦を明らかに知る」事は容易ではないと思います。

ダンマが一番

以前プッタタート比丘のサイトを拝見していて「どんなものが一番満足できるものですか?」とブッダが聞かれて「ダンマ」と即答したと言うくだりがありました。 当時まだダンマを学び始めて日が浅かった私は「理屈じゃそうなんだろうけど、娯楽や、美食、特に性的な関心は中々抜けないな、本当にそう思えるのかな、、、」と思っていました。 これは滅苦の効果、実現を疑う煩悩で、五蓋、五下分結の「疑」(ヴィチキャッチャー)に相当します。 ブッダダンマは頭で知識として知るのも大変ですが、実践して納得するまでもかなり大変で、普通は色々な紆余曲折があるのだと思います。