「苦」と「諦める」
ブッダの教えを学んでいて、「苦」は最初に学ぶ事ですが、何が「苦」なのかを明らかに知るのはそう簡単ではありません。
確かに普通は歯が痛いとか、お腹が痛いとか、欲しいものが手に入らない、好きな人と別れる、そう言った事は簡単に「苦」だと納得できます。
しかしブッダの教えを良く見ると、「変化するものは全て苦」とあります。更に良く見ると、楽しいことや嬉しいこと、好きなものに触れること、好きな人と一緒にいることまで全て苦だと言うのです。
これはブッダの教えを学び始めてすぐの人には到底理解できない事だと思います。私もそうでした。
仮に理屈でそうだと思えても、実際には好ましいものに触れたいですし、見たいもの、聞きたいもの、良い香り、美味しいもの、心地好い接触(代表は性的な事)、心地好い妄想(楽しいことを思い出す等)からそう簡単には抜けられないのです。
「諦める」と言う言葉がありますが、普通の意味としては何かが叶わなくても、望ましい事態でなくても受け入れる、それ以上事態の変化を望まない、と言う事になると思います。 しかし、明らか+~める(~にする)と言う変化を見れば、「諦める」のは「明らかめる」、つまり「明らかにする」と言う意味に解釈することもできます。
つまり「明らかに知る」事を「諦める」と解釈すると、諦めるのは単に放棄すると言うだけでなく、「全て知る」「知り尽くす」と言う意味になります。つまり「苦諦」は「苦を諦める」、「苦を明らかに知る」「苦を知り尽くす」と言う意味と解釈できます。
実際、無情のものは必ず変化するので、一瞬誰かの思い通りになっても必ず失われます。人間は永遠に自分の思い通りの状態が続いて欲しいと願うので、楽しい、好ましい状態も必ず変化して失われます。
恋人や友人と楽しい時間を過ごしていると、あっと言う間に終わりの時間、別れの時が来たと言う経験は誰にでもあることでしょう。ブッダはこの様に必ず変化して失われるものを「自分のものだ」と強く思えば思うほど失われる苦しみが大きくなることを説明したのです。
そうは言っても理屈を言われてすぐ納得出来るなら苦労はありません。実際には「苦を明らかに知る」事は容易ではないと思います。