ブッダダンマ各論

ブッダの教えについて各論、雑感を述べていきます。初めての方はブログもどうぞ。http://mucunren.hatenablog.com

花を美しいと思う心

美しい花を見て「美しい、、、」と感じたり、赤ちゃんや猫などを見て「可愛い、、、」と思う人は沢山います。

至極普通の事ですが、ダンマの視点から見ればその人達は目で見た美しさにうっとりして陶酔しています。美しさ、可愛さを「自分のもの」と掌握するので、好ましい感覚にどっぷり浸かります。

何故そうなっているのでしょうか?それは、もし赤ちゃんを可愛いと感じなければ、育てるのは大変労力のかかる事なので、どの生物も真面目に子供を育てようとしなくなるからです。

何故美しい花を何故好ましいと思うのかと言えば、毒でない色、生存に都合の良い色、形を好ましいと思わせないと、生物が何かを食べたいとか、生殖したいなどと思わなくなってしまうからです。

そうならない様に、生物に生存と生殖を促すために、生物には好ましい、うっとりする色や形、音、匂い、味、触感、考えと言うものがプログラムされています。

「赤ちゃんが可愛い」とか「花が美しい」のではなく、「そう感じる様にプログラムされている」のです。この真実は中々普通の考えでは見抜けません。

実際に、全ての望ましい、愛らしい色や形、あらゆる好ましさは無常で必ず変化しますので、浸かれば浸かるほど、陶酔すればするほど、その陶酔の対象を失う苦しみも大きなものとなります。

必ず花は散り、可愛い赤ん坊はいずれヨボヨボの老人になります。 大好きな、愛する恋人や家族と別れなければならないとき、死ぬほどの苦しみを味わいます。好ましい何かを手に入れられず自殺する人も沢山います。

目で愛らしい、好ましい色、形を見て「美しい」と感じるのは、目に光が入って眼識が生じ、目、光、眼識の三者が会合して触が生じ、触が縁で受が生じるからです。 この受が縁で渇望が生じ、 渇望が縁で執着が生じ、 執着が縁で界が生じ、 界が縁で生が生じ、 生が縁で老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩み、苦の山が生じます。

第一義諦(ブッダの視点)から見ると、花を見て美しいと思う気持ちは、好ましい異性を見て欲情するのと全く同じ仕組みです。

好ましい形に陶酔するのはもろに六根の喜びであり、これを「自分の感覚」と掌握すれば苦です。この様な事を普通の価値観の人に言えば不愉快な気分にさせる可能性が高く、時と場合を選ぶ必要があります。しかしこれは客観的に苦を知るための真実でもあります。

大多数の人は、六根の喜びに陶酔していて、美しく可愛いものが大好きで、美味しい食べ物を食べる事などを幸福と感じ、楽しく気楽な事を好み、普通はじっくり腰を据えて最高の真実であるダンマ(縁起、四聖諦)を見ようとはしません*1

しかし、生きることの苦について真摯に考える仏教徒ならば、その様に世俗諦(世俗の、世間一般の価値観)に埋もれるべきでないことは知っている筈です。

陶酔して渇望することの凶悪な害を知れば、釣り針の入った餌である六根の喜びに無防備に飛び付くことは恐ろしくて出来ません。

自然界、つまり無明からプログラムされた個体を生存させるための「自我」と言う感覚と、それに伴う「渇望(特に性欲)」「執着」などは、振り払って捨てるべきものです。

自然界(無明)の罠と知っていながら抗えずに六根の喜びを貪ってしまうのは、まだ害がはっきり見えていないことが理由です。

六根の喜びの凶悪な害を知って、それらの受に陶酔することの害を真実ありのままに見ることが出来て、その喜びの受から離れることが出来て初めて「その受を知り尽くした」と言います。

その受から離れられないうちは、「知り尽くした」と言えないのです。これは、例えばピアノの曲を譜面から弾き方から何から完璧にマスターした時初めてその曲を「知り尽くした」と言えて、楽譜とにらめっこしたり、タッチなどを懸命に確認しながらでないと弾けない様では何かに頼っている訳で、「知り尽くした」と言えないのと同じ様な話だと言えるでしょう。

*1:そもそも普通は四聖諦を知りませんし、知っていても中々実践は出来ません。