貪瞋痴と習慣について2
自動車の運転などでもそうですが、慣れないうちは一つ一つの動作をかなり意識的に行う必要があります。また、判断も動作も練度は低く(要するに下手で)、時間もかかります。
例えば狩猟生活や農業などの生産活動を考えれば、必要な動作や判断がいつまでも下手だと生存に不利なのは明らかです。
この不利を回避するために、人間は何度も行う動作や判断に慣れます*1。慣れてくるとそれらの判断や動作を一々意識的に行う必要がなく、無意識で瞬時に行う事が可能になってきます。
こうなれば狩りで獲物を仕留める確率も上がり、農作業などの効率も上がり、家事育児もそつなくこなせる様になります。この様に物事に慣れて無意識的に判断、行動出来るようになる能力は、個体を生存させるために必要なのです。
さて、ではダンマの観点から見た場合この慣れる能力は良いと言えるでしょうか?
例えば歩いていて進路を誰かに邪魔されたら瞬時に怒りが生じますし、魅力的な異性が居たら瞬時に目をひかれます。目の前に食べ物が置かれていたら何も気にせず食べてしまうこともあります*2。
この様に慣れる能力は身勝手な欲に対する条件反射的行動にも当然反映されますので、慣れる事と身勝手さを減らす事は必ずしも相性の良いものではないと言う事が見えてきます。
特に人間は生存してきた期間が長ければ長いほど、身に付いてきた習慣が多くなりますので、無意識的に判断、行動してしまう事は増えます。
ですから仏教の示す様に貪欲、瞋恚(怒り)を減らすためには、無意識に行っている判断と行動を自覚する必要があると言う事です。
これらから、人がついつい無意識に行っている判断と行動に常に理性を働かせて注意して(サティを働かせ)、その判断と行動を一旦止めて(サマタ)、その時の心の状況、考え方、身体の反応を観る(ヴィパッサナー)事が、貪欲と瞋恚を減らすために必要だと言う事が見えて来るのではないでしょうか。
そしてその様な貪欲と瞋恚が、実は生存のために無意識で獲得してきた習慣から生じていたと見えれば、貪瞋痴の痴(無知)も減って来るのです。この様にして、全ての判断と行動を自覚的に観察し、言動を改めることで三毒と呼ばれる煩悩である貪瞋痴を減らす事が可能になります。
この様に考えると、サティやサマタ、ヴィパッサナーと言うのは何も特別な訓練を要するものではなく、誰もがついつい無意識に行ってしまっている習慣的判断、行動を意識的、自覚的に分析する事だと見ることが出来ます。
この様な事はまさに日常生活の全ての状況において可能な事であり、また励むべき事でもあります。どこかのお寺に行って何時間も座る事だけが仏道修行なのではありません。まさに普段の生活全てが仏道修行なのです。
また、常にサティが働いていて、安定して落ち着いた心でいることを禅定(サマーディ)と言いますが、深さの差はあれ心は常に安定していなければなりません。これを只管打坐(ひたすら座禅し続ける)と見る事が出来ます。「出たり入ったりする禅定は良い禅定とは言えない。」と言う六師慧能の言葉があるように、何か特別な条件が満たされたときだけ心が落ち着ける、と言うのでは心の平安は覚束ないでしょう。
ここまでで「私の教わった話と違う。」と仰る方もいらっしゃるかもしれません。それは結構です。そしてその場合、この話とその教わった話のどちらがどう言う根拠に基づいて話されているのか、あるいは実は同じ教えなのか、良く考えて見ることもまたとても良い修行になると思います。
カーラーマ経にあるように、人は得てして「誰々が言っていたから正しい、この話は誰々が言っているから違う。」などと判断してしまいます。これも「習慣」によって身に付いた「癖」のひとつです。ブッダダンマを学ぶ人は常に自ら根拠を検証して判断しなければなりません。
自分で検討する、と言うのはとても大切な事なのです。
貪瞋痴と習慣について1
仏教は煩悩(ぼんのう)の三毒である貪瞋痴(とんじんち)を減らす事を説きます。貪瞋痴とは何でしょうか。
貪欲(どんよく)、瞋恚(しんに、怒り)、無痴(むち、無知)の事です。 貪欲は何かを強く欲しがる、したがる衝動です。欲には何かしら満足するものを欲したり、したがるもの(愛欲)と、何かになりたいというもの(渇愛)と、何かになりたくないものの(無渇愛)の三種があります。他にはありません。
また、貪欲と正しい希望(正しい志)とはしっかり区別する必要があります。
美味しいものをお腹いっぱい食べたい、好みの異性と性交したい、等と言うのは貪欲です。しかし、心を良くして落ち着きたい、人として良い状態になりたい、と言うのは正しい希望です。
貪欲は基本的に肉体を生き残らせようとする目的、あるいは肉体の遺伝子を残そうと言う目的から生じます。これらは自然界で生物として繁殖するための欲求ですから、まさに「自然に生じる」ものです。
自然のものだから悪いものではない筈でしょ?だから自然に振る舞えば良いのでは?と言う疑問は当然生じると思います。確かに生き残る事を何よりも善しとするならありうる考え方ではあります。
要は優先順位の問題なのです。確かに貪欲は自然に生じるものです。しかし例えば産まれた子供を全く躾ずに放任して、つまり自然のままにしておいて良いのでしょうか?何でも自然な欲求のままにして良いのでしょうか? 欲しいものがあって手に入れるために何でもする人間は、確かに自然です。しかし、気に入らない事で泣き喚く位ならまだしも、力が付いてくれば力ずくで奪い取る事もするかもしれません。
自然に生きると言うのは、言い換えれば本能の赴くままに生きる事とも言えます。こう言うと途端に自然に生きる、と言う事が悪いものの様に感じたのではないでしょうか?
ここでひとつ気を付けて頂きたいのは、単語や言葉の使い方で、同じ事でも良く感じたり悪く感じたりする事です。 例えば今の「自然に生きる」と「本能の赴くままに生きる」などはその好例です。人間は大人になればなるほど知らず知らずに物事の本質をありのままに見るのではなく、「今までの経験から自動的に導かれるパターン」、つまり習慣で判断、行動するようになります。 (続く)
休日と仕事、義務
GWも本日が最終日ですが、休みの日とは言えゆっくり心身が休まるとは限りません。
行楽などに出掛ければ楽しいかわりに身体は大変疲労したりします。嫌々付き合いで行ったりすれば疲労は倍増です。まして家族サービスのためなどで長距離を運転したりすれば尚更でしょう。
別に懐古主義を良しとはしませんが、例えば昔の職人や農家などは休みなどなかったと聞きます。毎日義務としての仕事を果たしていて、冬を越すにも生きていくために毎日何かしら義務がありました。また、暮らしも物質的には決して豊かとは言えず、医者にかかるお金もなくて病気が悪くなれば死ぬしかない、と言う話も珍しいものではなかった筈です。
しかし、だからと言って現代に生きる私達に比べて昔の人が精神的に貧しかったとは言い切れない様に思います。
物が無い分余計な煩悩に支配される機会も少なく、消費は生きていくために必要なだけであり、テレビなどに他人の贅沢な暮らしを見せつけられる機会もありません。こう言う暮らしはほとんど出家僧の様なものです。
プッタタート比丘は「仕事、義務はこれ以上ないダンマの実践」と仰っています。私達も自他を比較したり享楽にふける事からなるべく離れて、義務を果たすことを喜ぶ様にすれば心はとても軽くなるのではないでしょうか。
無欲とは
「仏教は無欲を説く」と言うと「欲が無いと食欲も睡眠欲も無くて死んでしまうのではないか?」と言う疑問が当然生じると思います。
確かに欲が無くなれば死んでも構わない訳で、完璧に悟った阿羅漢はいつ死んでも構わない心の状態になる訳です。
しかし、完璧な滅苦を説くことはダンマを学ぶ比丘のためだけでなく、在家の信者、ひいては全ての人にとって有益な事なので、阿羅漢は敢えて自殺はせずに、しかし乞食によって命を繋ぐ訳です。当然眠る事もします。これらの行為を指して「ほら見ろ、欲が残っていないとか言いながら、やはり欲があるではないか」と言う批判は的外れと言うことになります。
悟った人が命を繋ぐのは、個体の生存を続けたいと言う欲によってではなく、全体の利益を最大化するためです。これも慈悲の心と言えるでしょう。
そう言う慈悲の心を持った比丘(僧侶)は供養に値する人で、彼らにお布施をすることは大変な功徳になります。
しかし、聞く人によってはこう言う話は屁理屈に聞こえるかも知れません。しかも実際に、供物を多く得る目的で悟ってもいないのに「私は悟りを得ました」と嘘をついた人は昔から存在した様です。
自信過剰でなく欲のために自分の悟りの状態を故意に偽るのは大妄語戒と言う僧籍追放に当たる大罪(パーラージカ)です。規模が大きくなったサンガ(僧の集団)ではこの様な大罪やそこまで行かなくても見逃せない罪がたまにあって、その都度新しい戒律が増えて行った様です。
実際、後世の経では生活のために出家する者もいると言う記述もあり、かなり昔から出家したからと言って必ずしもブッダの教えである滅苦のダンマを真面目に学ぼうと言う人ばかりではなかった様です。
しかし、それらの人がいても欲が無くなっても生きている人の存在の矛盾を示す事にはならない筈です。
読者の皆様もご自分でこの問題をお考えになってみてはいかがでしょうか。
三つの幸福
幸福と一口に言っても人それぞれ何を幸福と言っているかが異なります。 真実をありのままに見るためには、言葉の定義はしっかりしなければなりません。
悪人が他者から何かを奪い取って満足するような事も悪人の言う幸福です。
また、六根の喜びに満足すること、欲の充足を幸福とすることもあります。これはカーマスッカと言います。
実際にはこれら二つの幸福は苦なので、味わって喜ぶのを避けるべき、恐れるべき幸福です。
三つ目の幸福は欲貪から離れた心の状態、禅定を喜ぶもので、これは恐れるべき幸福ではありません。この様であれば心は静かで、他者への加害の心などは一切生じません。
厳密には幸福はこの水準から上のものだけであり、欲の充足は幸福には分類されません。美味しいものを食べて「あ~幸せ」と思ったとしても、それは幻影です。
実際問題として幸福とは何かを正しく見ることは難しく、ほとんどの人は苦の海を回遊している事になります。
「生きる事は苦」と言うのは知識として承知するのすら大変な事ですが、納得するレベルまで得心するのは更に困難な事だと思います。
花を美しいと思う心
美しい花を見て「美しい、、、」と感じたり、赤ちゃんや猫などを見て「可愛い、、、」と思う人は沢山います。
至極普通の事ですが、ダンマの視点から見ればその人達は目で見た美しさにうっとりして陶酔しています。美しさ、可愛さを「自分のもの」と掌握するので、好ましい感覚にどっぷり浸かります。
何故そうなっているのでしょうか?それは、もし赤ちゃんを可愛いと感じなければ、育てるのは大変労力のかかる事なので、どの生物も真面目に子供を育てようとしなくなるからです。
何故美しい花を何故好ましいと思うのかと言えば、毒でない色、生存に都合の良い色、形を好ましいと思わせないと、生物が何かを食べたいとか、生殖したいなどと思わなくなってしまうからです。
そうならない様に、生物に生存と生殖を促すために、生物には好ましい、うっとりする色や形、音、匂い、味、触感、考えと言うものがプログラムされています。
「赤ちゃんが可愛い」とか「花が美しい」のではなく、「そう感じる様にプログラムされている」のです。この真実は中々普通の考えでは見抜けません。
実際に、全ての望ましい、愛らしい色や形、あらゆる好ましさは無常で必ず変化しますので、浸かれば浸かるほど、陶酔すればするほど、その陶酔の対象を失う苦しみも大きなものとなります。
必ず花は散り、可愛い赤ん坊はいずれヨボヨボの老人になります。 大好きな、愛する恋人や家族と別れなければならないとき、死ぬほどの苦しみを味わいます。好ましい何かを手に入れられず自殺する人も沢山います。
目で愛らしい、好ましい色、形を見て「美しい」と感じるのは、目に光が入って眼識が生じ、目、光、眼識の三者が会合して触が生じ、触が縁で受が生じるからです。 この受が縁で渇望が生じ、 渇望が縁で執着が生じ、 執着が縁で界が生じ、 界が縁で生が生じ、 生が縁で老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩み、苦の山が生じます。
第一義諦(ブッダの視点)から見ると、花を見て美しいと思う気持ちは、好ましい異性を見て欲情するのと全く同じ仕組みです。
好ましい形に陶酔するのはもろに六根の喜びであり、これを「自分の感覚」と掌握すれば苦です。この様な事を普通の価値観の人に言えば不愉快な気分にさせる可能性が高く、時と場合を選ぶ必要があります。しかしこれは客観的に苦を知るための真実でもあります。
大多数の人は、六根の喜びに陶酔していて、美しく可愛いものが大好きで、美味しい食べ物を食べる事などを幸福と感じ、楽しく気楽な事を好み、普通はじっくり腰を据えて最高の真実であるダンマ(縁起、四聖諦)を見ようとはしません*1。
しかし、生きることの苦について真摯に考える仏教徒ならば、その様に世俗諦(世俗の、世間一般の価値観)に埋もれるべきでないことは知っている筈です。
陶酔して渇望することの凶悪な害を知れば、釣り針の入った餌である六根の喜びに無防備に飛び付くことは恐ろしくて出来ません。
自然界、つまり無明からプログラムされた個体を生存させるための「自我」と言う感覚と、それに伴う「渇望(特に性欲)」「執着」などは、振り払って捨てるべきものです。
自然界(無明)の罠と知っていながら抗えずに六根の喜びを貪ってしまうのは、まだ害がはっきり見えていないことが理由です。
六根の喜びの凶悪な害を知って、それらの受に陶酔することの害を真実ありのままに見ることが出来て、その喜びの受から離れることが出来て初めて「その受を知り尽くした」と言います。
その受から離れられないうちは、「知り尽くした」と言えないのです。これは、例えばピアノの曲を譜面から弾き方から何から完璧にマスターした時初めてその曲を「知り尽くした」と言えて、楽譜とにらめっこしたり、タッチなどを懸命に確認しながらでないと弾けない様では何かに頼っている訳で、「知り尽くした」と言えないのと同じ様な話だと言えるでしょう。
*1:そもそも普通は四聖諦を知りませんし、知っていても中々実践は出来ません。
怒りと性欲、その仕組み
ブッダの教えを見ていると、ほとんどが欲(特に性欲)と怒りの話と言う印象を抱くことがあります。
考えてみれば確かに人が苦しむ原因の大部分は欲と怒りなのです。
欲(性欲)は素早いもので、多くの男性は魅力的な女性が近くを歩いているだけで目が釘付けになり、その人との性交を想像したりします。既にその時点で大変な心のエネルギーを消費するので、苦なのですが、普通はそれが苦だとすら知りません。
性欲は個体の遺伝子を残す目的の欲で、個体が「生き残り続けたい」という一番強い欲の次に強い欲です。完全に客観的に見れば、これは自己中心的な欲望であり、我、身勝手さが原因の欲だと見えます。
仮にそう言う魅力的な女性と性交出来たとしても、それが好ましいものならその女性と性行為への執着はもの凄く強くなります。また、付き合い、性病、結婚、妊娠、子育てと言ったあらゆる苦労の原因となり得ます。
多くの人はそれが苦だと明らかに知らないので、ブッダ曰く「苦の海を回遊する」事になります。好ましい受(この場合はセックスの快感)の満足の威力で渇望とそれに伴う執着は際限なく増大し、無常による老死、嘆き、悲しみ、苦、憂い、全ての悩みが生じる原因になります。
女性の性欲も素早いことに変わりはなく、余裕がある状況なら好ましい男性がいれば一瞬で見つけます。また、女性同士で会ったときに、相手の顔、服装、アクセサリーなども一瞬で把握します*1。この外見チェックと同時に自分との比較も含めた格付(ランキング)がなされます。このランキングは上記の理由から非常に正確で、例えば好みの男性が同席するような場に自分より魅力的な女性が来るのを排除する目的等に活用されます*2。
こういう欲から生じるあらゆる行為は、客観的に見られればとても疲れてうんざりする話だとわかってきます。これは人生の経験が多い人、例えばご年配の方の方が、若い人より理解しやすいかもしれません。
怒りもとても素早いもので、例えば横断歩道を歩いているのに車からクラクションを鳴らされ、カッとなって「何だこの車!?(怒)」と思ったりします。クラクションを鳴らした運転手も当然何かしらイライラして鳴らしているので、当事者が両方ともイライラして怒っています。
クラクションを鳴らされて驚き、そこから怒りが生じるまでおそらく一秒もかかりません。怒りを抱いている人はその間中地獄の住人(死人、亡者)になっているとすれば、人が死人になるのに一秒もかからないと言う事です。
実は怒りも「安全に生き続けていたい」「都合の良い状態で居続けたい」と言う我、身勝手さから来る欲望が原因になっています。なので、少しでも状況が不愉快や危険になると、自分の都合にそぐわない状況に対して怒りが生じるのです。客観的に考えれば、いつ死んでも良いと本心から思っている人なら、自分を殺してくれる相手に怒りを向けることはないのです。怒りは身勝手な自己都合から生じると言う仕組みも理解しておいて損はありません。
この様な欲や怒りは、もとをただせば客観的に物事を見られていないこと、つまり無明(愚痴*3)が原因です。無明があって「自分」という間違った感覚があるので、欲や執着が発生し、怒りもそれに付随して生じます。
仏教では良く貪瞋痴(欲、怒り、無知)の順で語られますが、発生原因の順で言うと、痴→貪→瞋になります。 しかし、六根の喜びは苦、という事が一番理解しにくいので、まず喜びの受に対する貪欲、次に気に入らない受に対する怒り(瞋恚)、最後に無明である愚痴の順番で説かれているのでしょう。